見出し画像

さかなのこ

ポップコーンは買わない。vol.130

鈍感さ、盲目さ

好きなことを好きだと言い続けることの難しさは、ある意味での鈍感さや盲目さが必要な気がしている。

好きなことを見つけろとか、好きなことで生きていくには、みたいな文言が方々で飛び交っているが、そのようにしたくてもできない人が多いから、書店にはそういう類のビジネス書が並ぶのだろう。

いってしまえば、やれる人はとっくにやっているし、やれない人はいつまで経ってもやれない人が大半のはず。

大衆の欲に漬け込んだ商売とはそういうものだ。

この作品もさかなクンという社会の中でも特異な存在の物語を描いていて、娯楽として楽しむには非常にいいとは思うのだが、好きなことを貫くことの大事さ、みたいな文言で評価するのはちょっと違うんじゃないかって思う。

ミー坊は小学校からある種の”社会”というものを経験していくのだが、その社会の中でのミー坊の存在はとても特異なものでして。

教室でのシーンで、ある意味いじめに近い行為がミー坊にふっかけられた時にミー坊自身はそれをいじめと捉えることはなく、肯定的に返したというシーンがある。これは感動的なシーンの一つなのだが、

ある種の鈍感さがこういう場面で発揮される人ってほんとに強いと思っていて。

そして、気になったのがミー坊の周りにいる子供たちの”子供らしさの欠如”が気になった。これは演出としてわざとやっているのかもしれないが、現実世界にも妙に大人びた子供っているなって思う。

変な意味だけど小学生らしい振る舞いをしているのはミー坊に限られる。

小学校というある意味での社会の中で、生きていく術として周りに合わせておとなしく過ごすことは周りの反応に対して敏感にならざるを得ないことなんだ。

そんな見えない争いが繰り広げられている中で余裕でお花を摘んでいる人も中にはいたりする。そんな鈍感さ、盲目さ、とても羨ましい性格である。

結局アウトプットが好きでいられるかどうか

そんなミー坊は高校生になろうともお魚への愛は変わらない。

男の子が幼少期に虫や恐竜を好きになるのはわかる。でもそれを好きでい続けるのは結構難しいことなんじゃないかって思う。

自分の経験で言うと、”仮面ライダー”小学校の頃は男の子界隈ではみんな好きだった。

でも小学六年から中学に差し掛かるにあたって、そこへの興味を持ち続けることは”ダサい”みたいな風潮になった。それでもなお好きでい続ける人は一部いたのだが、ある意味で鈍感な部分があったんだと思う。
そういう子達ってちょっとしたことだけど、絵がうまかったり、音楽をやってる子だったりでクリエイティブな子多かったように感じる。

それが今でも続いてる人が多い印象。

好きなもの、ことって誰しも持つものだけど、それを好きでい続けることある意味簡単。それを掘って、アウトプットすることの壁があると思う。

でも結局そこなのかもしれないよな。
アウトプットすることが好きであれば強いのかもしれない。

ミー坊もとにかく絵が上手い。魚の絵ばかり描いている。

絵を描くことや、文章を書くことなど何かしらのアウトプットを難なくこなせる人、さらにそこに才能や周りの空気とはどこか違うある種の鈍感さが乗っかってくると売れるんだろうなぁ。?

最後に

柳楽さんが演じてる人物の変化がまた面白い。好きを好きでい続けることにまわりなんか関係ないんだってことをミー坊に気づかされて、生き方が変わっていく姿がいいなって思った。

ミー坊のように先天的なことではないことが示せているのも元気もらえて、希望が持てる映画として観られるのはいいなって思った。


この映画は個人的にはかなり良かった。2022年で観た中でトップ5には入ってくる感じだね。

日本アカデミーでも何かしらの賞は取るんじゃないかねぇ。


関係ないけど、2022のベストは
”秘密の森のその向こう”

めちゃくちゃ幸せな気持ちになれる映画。劇場でまた観たい。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?