見出し画像

なぜ、私たちは物事を「分類」したがるのか。

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「分ける」と「混ぜる」です(本記事は2021年5月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。

 異なる二種類以上のものが混在していると、つい分けたくなってしまう性分を持っています。何かを二分割した上で比較検討するという本稿もまた、分類好きの性質から来たものと言えましょう。

 「わかる」の語源は「分ける」なのだそうです。確かに古語辞典をひいてみると、「分く」のところには「分ける」という意味の他に、「識別する、理解する」という意味が書いてあります。様々なものが混在している状態を整理して分けることによって、全体像を把握することができるのです。

 学問の世界でも、基本となるのは「分ける」という行為。分類し、系統立てることによって、すべての研究は進んでいくのでした。

 では、何かを分けることが好きな私が、学問好きで物のわかった人間なのかといったら、全くそうではありません。私の場合、分けるという行為に求めているのは、生理的な快感のようなもの。カニの脚からきれいにカニ肉を取り出せた時のように、分けた瞬間に、
「すっきりした!」
 と満足して、その先に進まないのです。

 このような「分類欲求」を持っているのは、私だけではありません。そしてこの、「とにかく分けたい」という気持ちは、時に危険なものでもあるのでした。

 人類の歴史を見ても、「分けたい」という欲求によって様々な悲惨な出来事が起こっています。「分けたい」とはつまり、「同類同士を集めたい」ということ。そこで少数派や力の無い人々がはじき出されたり、差別を受けたりする事例は後を絶ちません。

 一方では、そのような現象に、「混ぜる」ことによって対抗しようという動きもあります。国連(ユナイテッド・ネイションズ)、ユニバーサル・デザインなど、「uni」という接頭語がついている単語を見ると、「混ぜる」ことの大切さを私たちは知ることになるのでした。

 「uni」とは、「一つの」という意味を持つ接頭語。バラバラにあるものを一つにまとめる、という意味の言葉です。

 それらは、同種のものをまとめるというより、別々のものを混ぜて一つになる、という意思を持つ言葉です。国連にしても、様々な文化を持つ国や地域の連合体ですし、ユニバーサル・デザインは、国籍や使用言語や老若、性別、身体的条件を問わず、様々な人が使いやすい街や建築、物品等のデザインのこと。

 テレビなどを見ても、今や性別をどちらかに分けずにいられないのは古い感覚、と思うものです。男と女のはざまに自由にたゆたう「ユニセックス」な人々が、混ぜることの魅力をアピールする世の中となっているのです。

 元々は、男女や身分の差で、人をきっちりと分けることによって管理してきたわが国。ここに来て「混ぜましょう!」と言われてもねぇ、と思う人も多いことでしょう。

 しかし、私たちは均質な集団の中でだけ生きてきたが故に、自分とは違う人々のことをあまりにも知りません。外国人のこと、障害を持つ人のこと等のみならず、隣の町に住む人のことすら「異質」と見てしまう性癖がある。

 バラバラな個性を持つ人々が一つになるのは、面倒くさいことです。しかし我々はそろそろ、その面倒くささを乗り越えなくてはならない時に来ているのでしょう。「分ける」は「わかる」の語源だけれど、「混ぜる」ことによって「わかる」こともまた、あるような気がしてなりません。
 
酒井順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がべストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『日本エッセイ小史』(講談社)など。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。


この記事が参加している募集

#最近の学び

181,501件

#国語がすき

3,808件