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いま、被災地はどうなったのか。復興のために村長になった僧侶が語る、飯舘村の現在

 2011年の東京電力・福島第一原発の事故の影響により、高濃度の放射能に汚染され、村全域が計画的避難区域に指定された福島県飯舘村。2017年3月31日に一地区を除き避難指示が解除され、さまざまな復興事業が進んでいます。その地で、震災当時から、善仁寺住職、そして村役場の職員として復興に尽力してきた杉岡誠さんに、ご自身が目の当たりにした震災当時から現在に至るまでの飯舘村の軌跡を伺いました。(この取材は2021年2月に実施されたものです)

ーー杉岡さんが飯舘村で住職になった経緯を教えてください。

 私自身は東京生まれなのですが、祖父が飯舘村の善仁寺という寺で住職をしていました。幼少期に村へ遊びに行くたびに、祖父母が念仏をとなえる様子や、村の方々が和気あいあいとする様子が心地よく、「将来は都会よりこういう場所で暮らしたい」と想いを募らせていました。高校時代に僧籍を取り、25歳で飯舘村へIターン移住し、村役場に勤めながら住職として活動するようになりました。

ーー震災当時の飯館村の状況は?

 強い岩盤に守られたおかげで、3月11日当日は水道や電気が停まる以外に大きな影響はありませんでしたが、その後、役場職員としてモニタリングポストの観測に携わることになってからが大変でした。

 私は大学時代に原子核物理学を専攻していたので、刻々と上がる放射線の数値を見て、「これはまずい」と。そこで、尊重・副村長にグラフで状況を説明し、「早急に対応する必要があります」と訴えたのを覚えています。

ーーその後、飯舘村には全村民避難指示が出されました。

 村の方々は大変な想いだったと思います。ただ、みなさん大変だったはずなのに、「住職さん、ご飯食べているの?」と連日役場に泊まり込む私をねぎらってくださって、涙がこぼれる想いでした。避難中も、被災してないお寺をお借りして、報恩講を営みましたが、60~70人の門徒さんが集まりました。なかには車で1時間以上かかる場所からきてくださった方もいて、心打たれました。

ーー2017年に避難指示は解除されましたが、当時のお気持ちは?

 除染作業が完全に終わっていない状態での解除だったので、村に戻れる喜びよりは、「この状態で何ができるのか」との想いが強かったです。さらに、すでに避難先で新たな生活を始める方が増えてきた頃でもあったので、村民もいないなか、今後どうやって主力産業である農業を再開するかが一番の課題でした。

ーーこの数年間で、飯館村にはどんな変化が起きているのでしょうか。

 震災前は5800人いた村民は全村避難で全員が村外退去しましたが、現在、人口は1500人ほどに戻りました。農業面では、お米の作付面積がこの1年間で43ヘクタールから140ヘクタールに増えました。また飯館牛という黒毛和牛のブランド牛の再生や花の生産にも、力を入れています。

ーー2020年7月には、役場職員から村長へと転身されました。

 全村避難で村(ふるさと)を一度離れたからこそ、その魅力を再確認できたと思っています。村の方々の屈託のない笑顔を次世代に受け継ぐために、いま、なすべきことをしなければと決意しました。

ーー震災と深く関わってきた杉岡さんだからこそ、感染症がまん延する現状に対して思うことを教えてください。

 新型コロナウイルスは「災害」と同じだと思います。ここでいう「災害」とは、対処法すらわからない不測の出来事を指します。災害を前にして我々にできるのは、なすべきことをなすだけです。

 いまなら「手洗い・うがい・密にならない」などですね。そして、こうした事態だからこそ重要なのが「自愛」です。それぞれの方がご自身を守ることが、結果的に社会を助け、ほかの方を助けることにつながるように思います。

ーー最後に、展望を教えてください。

 被災を経験し「多くの方々のおかげで、私たちはいまここにいるんだな」と常々感じています。飯舘村の「いきがいと生業(なりわい)」を再生するなかで、みなさまに受けたご恩をお返ししていけたらいいなと思います。

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飯舘村の魅力を杉岡さんに聞くと、「この村の人の笑顔、自然、すべてが魅力です」と答えてくれた。

杉岡誠(すぎおか・まこと)
東京工業大学大学院で原子核物理学を学んだ後、飯舘村へIターン移住。祖父の跡を継ぎ、善仁寺住職に。2020年に飯舘村村長に当選。大学時代には、中央仏教学院の通信教育を受講。当時の築地別院にスクーリングで通っていたとか。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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