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「三河一向一揆」のまとめ

■「三河一向一揆」連記事


西三河での一向宗の起源『三河念仏相承日記』
https://note.com/sz2020/n/nbada9898107a

「三河一向一揆」の史料
https://note.com/sz2020/n/n1fa7336eda09

「三河一向一揆」の研究
https://note.com/sz2020/n/n8fdfb3e2caeb

【覚書】「三河一揆」の発端(資料集)
https://note.com/sz2020/n/n5df2a32fda7e



■2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』


□第7回「わしの家」
・予習
https://note.com/sz2020/n/nb87d64667ee1
・復習
https://note.com/sz2020/n/ndb75002c38b2
・動画
https://note.com/sz2020/n/na5b0048a544c

□第8回「三河一揆でどうする!」
・予習
https://note.com/sz2020/n/n5e591796e846
・復習
https://note.com/sz2020/n/n7b276dc3125c
・動画
https://note.com/sz2020/n/n2723d4c4fefa

□第9回「守るべきもの」
・予習
https://note.com/sz2020/n/n15ff5bb78544
・復習
https://note.com/sz2020/n/ne7d5b2969b93
・動画
https://note.com/sz2020/n/n54903e16e4f7

■徳川家康にとって「三河一向一揆」とは何だったのか?


 2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』第9回「守るべきもの」の空誓には前回のような覇気はなかった。本多正信と望月千代に踊らされて戦いを広め、「守るべきもの」である門徒を死なせてしまった。
「軍師殿、そなたはなぜここにおる?」
空誓が気づいた時には既に遅く、多くの門徒が死に、望月千代は消えていた。(「殿に勝ち目はござらん。御仏の子らは止められん。この者たちが死ねば、その子が、それらが死ねば、その孫どもが、永遠に戦い続ける」と言う軍師がいなければ、「この子らに言うんか? もっと戦えと、もっと死んで来いと・・・わしには言えん」(「もっと」は三河弁では「まっと」)と白旗揚げて、こんなに大きな被害になっていなかったであろう。)
「三河一向一揆」とは、19歳の空誓と21歳の松平家康の「若気の至り」であった。

 最近の研究では、「松平家康 vs 一向門徒」のみならず、同時多発の「松平家康 vs 反松平家康(今川方)の国衆」にも焦点があてられ、「三河一向一揆」ではなく、「三河一揆」とも呼ばれているが、いずれにせよ、学会の見解は、「「三河一揆」は、松平家臣団の分裂という危機であったが、「三河一揆」により、反乱分子が取り除かれ、松平家康による西三河支配が確固たるものになった」である。西三河支配が確固たるものになった理由は、松平家康の慈悲により、やむを得ず一揆側についた家臣の帰参を許したので、松平家康と家臣が信頼関係で結ばれたとする。「災い転じて福と為す」「雨降って地固まる」といったところか。

 学者に言えば笑われるが、松平家康は先を見据えていたように私には思われる。「上ノ郷城攻め」のように、1つの城を攻めるのであれば、数百人の兵で足りるが、今回のように同時多発では、兵が足りない。「多くの兵が欲しい」として、(慈悲心からというより、もっと切実な「兵数不足」という問題で)やむを得ず一揆側についた家臣の帰参を許したのであろう。
 また、反松平家康軍の拠点を潰していく事は、国内の主要都市を潰していくことであり、第9回「守るべきもの」の水野信元が言ったように、「長引けば長引くほど三河の国そのものが衰えてゆく。勝ったところで、その頃には三河はもうボロボロ」になる。ボロボロになれば、攻められる。最悪は「織田&松平同盟 vs 今川&武田&北条同盟」という大戦(おおいくさ)である。松平家康は「この先の戦いは、局地戦ではなく、大戦になる」と先を見据えていたように思われる。己の弱さを知る者は強い。

 血気盛んな19歳の空誓と21歳の松平家康の「若気の至り」である「三河一向一揆」は、稲刈りが終わった10月に始まり、田植えの準備を始める2月に終わるという農閑期(12/8~2/8)での戦いであった。多くの死者を見て煮えたぎった血が冷え、和議にもちこんで農作業に影響を与えないようにしたのは英断である。


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