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第8回「三河一揆でどうする!」(予習)

永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄5年(1562年)2月24日 「元康」から「家康」に改名(翌年説あり)
永禄5年(1562年)6月    上ノ郷城に久松長家、於大の方等入城
永禄6年(1563年)5月   「神君一宮後詰」(永禄7年説あり)
永禄6年(1563年)6月    上野城の酒井忠尚が挙兵
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名(昨年説あり)
永禄6年(1563年)10月    寺部城の小笠原広重&東条城の吉良義昭が挙兵
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月    「三河一向一揆」終結
永禄9年(1566年)5月     「三河国平定」(牛久保の牧野氏が従属)
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。三河守叙任。

※前回、徳川家康の「家」の意味について扱われた。通説は「源義家」の「家」であり、新説は久松長家の「家」であり、『どうする家康』では「三河国を一つの家、わしの家と考えてのこと」だとした。
 ワタシ的には、「源義家」の「家」でいいと思う。というのも、「源義家の軍法を継ぐ者は、名に「義」か「家」を使うルールがある」という話が私の胸に刺さったからである。徳川家康は源義家の後継者──【覚書】として史料をまとめておいた。


1.三河一向一揆

『知立市史』

■三河における本願寺教団の本拠地
・土呂本宗寺(土呂(岡崎市福岡町)から岡崎市美合町に移転)
■三河三ヶ寺(三河における本願寺教団の拠点)
・野寺本證寺(安城市野寺町)
・佐々木上宮寺(岡崎市上佐々木町)
・針崎勝鬘寺(岡崎市針崎町)

 三河における本願寺教団の本拠地は土呂にあった一家衆寺院・土呂本宗寺(蓮如創建の本願寺別院・土呂御坊)であった。「三河一向一揆」は、この本宗寺および三河三ヶ寺と反安祥松平家の武士と松平家康の戦いであって、実は宗教色は薄い。そのため、「三河一向一揆」を「三河一揆」と呼ぶ動きがあり、本作でも「三河一揆」とする。

本願寺8代目法主・蓮如─九男・実賢(第5夫人・蓮能尼の子)─実誓空誓

 「三河一向一揆」の時、本宗寺住職は姫路市におり、「三河一向一揆」の中心人物は、徳川家康の2歳年下(19歳)、本證寺住職・空誓(蓮如のひ孫)であった。高身長で怪力、血気盛んな青年だったという。
 ただ、本證寺は岡崎から遠いので、激戦地は上宮寺や勝鬘寺の周辺になった。(最近の研究では、「三河三ヶ寺」の末寺も激戦地であったことが分かってきた。)


2.「三河一向一揆」と家康伝説

妙源寺(愛知県岡崎市大和町沓市場):逃げてきた徳川家康を助けた。徳川家康は、「黒本尊(九郎本尊)」のお礼として寺領50石と「源」の1字を与えたという。そこで「明眼寺」から「妙源寺」に改名した。

山中八幡宮の鳩ヶ窟(愛知県岡崎市舞木町宮下):逃げてきた徳川家康は洞窟(横穴式古墳?)へ身を隠した。一揆勢が追って来ると、鳩が飛び出したので、「この洞窟には人はいない」と一揆勢が去った。(モチーフは石橋山の源頼朝?)

隣松寺の稲荷社(愛知県豊田市幸町隣松寺):隣松寺は、上野城に立て篭る酒井忠尚を討つために徳川家康が本陣を置いた寺である。鎮守社の稲荷社は、松平広忠が竹千代(後の徳川家康)誕生にあたり、成長の無事を祈願した神社で、徳川家康は、「三河一向一揆」(上野城攻め)に際し、この神社で戦勝祈願をし、勝利の後、寺の山号を「玉松山」から「稲荷山」に改め、自身(24歳)の甲冑姿の木像(「唯一の青年家康像」として本や雑誌に掲載されている)と念持仏(阿弥陀三尊像)を寺に奉納すると共に、朱印地30石を寄進した。なお「三河稲荷神社」(東京都文京区本郷)は、この稲荷社の末社である。





★今後の『どうする家康』
・第8回「三河一揆をどうする!」
・第9回「守るべきもの」
・第10回「側室をどうする」
・第11回「信玄との密約」
・第12回「氏真」
※ノベライズの2巻は3/17発売。


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