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山中八幡宮

1.式内・稻前神社

三河国額田郡の式内社は、
・稻前(いなさき)神社
・謁播(えはた)神社

の2社しかない。広いのに・・・。

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論社は、
・稻前神社
 ・稲前神社    (愛知県岡崎市稲熊町森下)
 ・山中八幡宮・奥宮(愛知県岡崎市舞木町宮下)
 ・神明宮     (愛知県岡崎市元能見町)
・謁播神社
 ・謁播神社    (愛知県岡崎市東阿知和町北山)
 ・川原宮・謁盤神社(愛知県豊田市御蔵町)
である。

 「稲前神社」にしろ、「謁播神社」にしろ、岡崎人でないと、まず読めないであろう。『延喜式』には「稻前(いなさき)」「謁播(えはた)」とルビがふられているが、現在の正式な読み方は、「稲前(いなくま)」「謁播(あつわ)」である。「稲前神社」は稲熊町にあるので「いなくま」、「謁播神社」は阿知和(あちわ)にあるが「あつわ」である。

 稲熊町は伊勢神宮領で、伊勢神宮に納める稲の倉があったので、いねくら→いわくまと転訛。「くま」は漢字で「前」と書いたり、「熊」と書いたりしたと言う。「稲前神社」が岡崎市上青野町稲前東/西にあれば、地名のままなのであるが・・・。

 山中八幡宮は八幡三神(応神天皇、比咩大神、息長足姫命)を祀る八幡宮であるが、八幡宮が建てられる前から存在した奥宮が式内・稻前神社だという。であれば、「稲前八幡宮」とか、「舞木八幡宮」でもよさそうであるが、山綱村、舞木村、市場村、羽栗村、池金村が合併して山中村となった時の名称をそのまま使っているのであろう。実際「稲前神社 舞木八幡宮」と書かれた棟札が残っている。
 地名「舞木(まいぎ)」は、文武天皇3年(699年)9月9日に、雲の中から御神木が八幡神を乗せて舞い降りたことによる。重陽の日だったので、祭りを行い、「稲前祭」と名付けた。

■『参州額田郡山中稲前神舞上八幡宮御鎮座記』(逸文)
 日中に当りて一片の雲気、岩尾山の北の峯に群り暫く有りて、雲中より神樹一株舞下る。其の枝葉うるわしく茂にて天然の樹木なれば、見る人奇異の思いをなし、又、時に傍らより一人の童飛出して、「我はこれ光重に約せし八幡也。早く小祠を営みて祭祀怠ることなかれ」と神宣当に著しければ、日あらずして御社を造営し奉る。文武天皇3年9月9日なれば、今に例えて重陽を御祭として「稲前祭」と申し、「舞木村」と申上げる也。御宮の異験他に異なることは今川義元公の御墨附に歴然たり云々。

※焼失した神主・源親盈『参州額田郡山中稲前神舞上八幡宮御鎮座記』(安永4年(1775年 ))の逸文。

まとめると、
・699年9月9日重陽、八幡神が木に乗って降臨:「舞木」地名の由来
・すぐに式内・稲前神社を奥宮として八幡宮を建てる。
・「稲前神社 舞木八幡宮」と称す。
・延長5年(927年))に完成した『延喜式』に掲載される。
・合併により村名が変わり「山中八幡宮」と称す。
となろう。

【異説①】奥宮は「白山社」と呼ばれている。
【異説②】朱鳥14年(699年)9月9日、山中光重が宇佐八幡大神の夢のお告げで宇佐から神霊を迎えて八幡宮を建てた。
【異説③】山中村主・山中光重が、稲前神社に八幡神を合祀して「八幡宮」と社名を変えたのは、文明4年(1433年)のことである。

■『参州額田郡山中八幡神宮紀』
 人王42代・文武帝王の御宇、参州額田郡に山中氏光重というふ者有り、云々。夢に、神告げて曰く「汝、信心怠らず、毎歳于茲に来る矣。我、汝が跋渉ばっしょうの労を憐み、今従り已降いこう、汝の国に往きて、共に国家を擁護しべし也」と。
(中略)
祥雲一片、于尾山の北嶺にむらがる。少選しばらくありて、雲中自り、神樹一本、翩遷へんせんとして降る。往て之れを視れば、枝葉繁蕪して、天然の植木也云々。稠人の中に童子有り。卒然として曰ク、「我は是れ宇佐八幡也。約して於きし光重に期(とき)来る矣、云々。即ち其の地に就き、三間一面の閟宮(ひきゅ)日不して之れを成し、始めて頻繁の礼を行ふ。実に文武天皇3年9月9日也。民、今に至るまで、重陽を祭日と為すを以て、名づけて曰く、「稲前祭」と。又、其の邑を舞木郷と曰ふ。
(中略)
かくて当時の国司、美田、若干を献じて祭祀の料に充て、光重をして山中七邑を管せしめき。已來(いらい)数百年、治乱興亡世を異にし、社運、亦、其の盛衰、同じからざりき。

2.山中八幡宮と松平家


・初代・松平親氏
 応永年間(1394-1428)に参拝し、開運を祈願。
 その後、松平歴代の崇敬が厚かった。

・8代・松平広忠
 天文年間(1532-1555)に焼失したが、松平広忠が再建。
「源亞相広忠公、岩尾山の御城に在りし時、覽じ、其の散落を臨み、私財を尽くして之れを造立す。雕、甍、繡闥頓に旧觀に復す。れに加ふるに、社田を寄せ、以て奉幣の供に備へ、家人・竹尾氏正照をして勤仕をるし、神職に補して奉仕せ使む」(『参州額田郡山中八幡神宮紀』)

・9代・松平元康(後の徳川家康)
 初陣の時に必勝祈願した。 
 永禄6年(1563年)の三河一向一揆で、徳川家康は、境内の洞窟に避難。
 この洞窟を「鳩ヶ窟」、鎮座する山を「御身隠山」と呼ぶようになった。
 180石を寄進(慶長8年(1603年)8月26日付徳川家康御朱印状)

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