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「三河一向一揆」の研究

「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「神君伊賀越え」を「徳川家康の三大危機」と言うが、研究は進んでいない。

「三河一向一揆」については、史料があったであろう一向宗の寺院が焼失したので史料が無い。(新史料の発見を待つ。)

「三方ヶ原の戦い」は夕方から夜にかけての数時間の戦いで、戦場すら不明(三方ヶ原のどこかであろうが)。

「神君伊賀越え」については、逃走ルートが不明。「伊賀越え」とも、「甲賀越え」とも言われ、伊賀忍者は「伊賀越え」だと主張しているが、徳川家康の文書が残っているのは「大和越え」である。


「三河一向一揆」の研究者として知られる佛教文化研究所所長・安藤弥氏によれば、「三河一向一揆」の研究とは、
・新行紀一氏の研究(1975)
・『新編岡崎市史 2中世』の記述(1989)
・村岡幹夫氏の研究(2010)
を総合的に考えることだという。
史料は、
・『松平記』
・『三河物語』
参考史料は、
・『三河記異考拾遺録』(後に『三州一向宗乱記』と改題)
だという。(『永禄一揆由来』を加えてもいいと思う。)

「総合的に考えよ」とは、「三河一向一揆」を「一向一揆」という言葉にとらわれて、「徳川家康 vs 一向宗徒」と捉えずに、「徳川家康 vs 一向宗徒&
三河国内の今川勢力(反徳川勢力)」、結果的には「西三河統一戦」として捉えよということである。

ようするに、史料が少なく、1ヶ月もあれば全史料と全論文を読み終えて「三河一向一揆博士」になれそうな気がする。(「一生かけて「三河一向一揆」だけを研究している」という人はいない気がする。「三河一向一揆博士」とは、「三河一向一揆」についても研究している全国の「一向一揆」の研究者であろう。)

・神田千里『一向一揆と戦国社会』1998
・草野顕之『戦国期本願寺教団史の研究』2004
・安藤弥 『戦国期宗教勢力史論』2019


 寺内町の賑わいは石川数正など、一向宗信者の家臣に聞けばよく分かるはずである。
 野寺にしろ、土呂にしろ、岡崎からは遠すぎる。なお、土呂の町並みは京都のようで、毎月8の日(8、18、28日。3の日の深溝の市が無くなってからは、毎月3、8、13、18、23、28日)に市がたっていたという。

 信長公御威光と申しながら、家康公、未だ壮年に及ばれざる以前に、三川国端に、土呂、佐座喜、鷲塚とて、海手へ付けて然るべき要害、富責にして、人多き湊なり。大坂より代坊主入れ置き、門徒繁昌侯て、既に国中過半、門家になるなり。
 無二に、かの一揆御退治なさるべきの御存分にて、年月を経、御退屈なく、ここかしこにて、御自身、数ヶ度の御戦をなされ、御高名度々、その数を知らず。一度も不覚これなく、終に御本意達せられ、一国平均に仰せ付けられ、年来の御辛労、御名誉、勝て計うべからず。

【現代語訳】同盟を結んだ織田信長の後ろ盾があったとはいえ、徳川家康は、20代前半の若さで、西三河の土呂、佐々崎、鷲塚といった海に面した要害は、富貴で人々が集まる港町にあった。大坂本願寺より住職が派遣されて入れ置かれたため、一向門徒は数を増やし、既に三河国の人口の半数以上が一向門徒になっていた。
 この一向門徒たちによる「三河一向一揆」に対し、徳川家康は敢然として立ち向かい、長い年月を経ながらも休む事なく攻め続け、自らも数度出陣して功名を挙げること数知れず。一度も不覚を取ることなく、遂に一向門徒を倒し、三河国を平定した。ここに至るまでの辛労と功名の数々を数えることはできない。

『信長公記』(巻14)

 野寺が、『どうする家康』のように、毎日が市の開催日のように賑わっていることはありえない。

──毎日馬鹿騒ぎって・・・いつ農作業をするの?

(「家康」への改名が7月、その後、反乱分子の鎮圧戦があって、野寺へ行ったのは12月の農閑期という設定か?)

 「歩き巫女」が、「進者往生極楽、退者無間地獄」と政治介入することはあるのだろうか?

※「進者往生極楽、退者無間地獄」:「進まば往生極楽、退かば無間地獄」と読み、「事(ここでは戦争)に臨んで、前進すれば極楽往生し、退けば無間地獄に落ちる」という意味で、一向一揆に使われた旗に書かれた。

「乱世を見つめたミステリアスな歩き巫女」千代については、『どうする家康』公式サイトには、「本證寺の境内で神秘的に舞う巫女として振舞い、家康と空誓が出会うきっかけをつくる。全国津々浦々を歩いてめぐり、各地の情報を握り、重要人物と通じているが、素性も狙いも、敵か味方かも分からない。家康とは不思議な縁で、長き関係を結ぶ」とある。(ちなみに、空誓(19)と徳川家康(21)の関係も、史実では長きものになった。)

「重要人物と通じている」とあることから、ネットでは、「その重要人物とは武田信玄であり、千代は望月千代女である」という推測が流れている。

望月千代女(もちづきちよじょ):武田信玄の命で、身寄りのない女の子達を引き取り、歩き巫女(各地の情報を集める女忍者)として育成した女忍者集団の棟梁である。今回、空誓の小便を見ていた女の子も引き取られた?

 コメント欄に私の意見を聞きたいという書き込みは無いが、聞かれれば、「時代が異なるが、『三河念仏相承日記』に「女性は弥勒御前、鶴宮御前、乙王御前一人(皆、遊君也)。但し、乙王御前に仔細あり」とあるから、謎の歩き巫女・千代は遊君(白拍子)・乙王御前、遊び女・おふうと遊び女・おりんは遊君・弥勒御前と遊君・鶴宮御前がモデルだと思う」と答える。

 俳優・藤岡弘、さん(76)のお子様は、1男3女の4人。長女が天翔愛さん、長男が藤岡真威人さん、次女が天翔天音さん、三女が藤岡舞衣さんである。今回、長女・天翔愛(21)さんが遊び女・おふう、次女・天翔天音(17)さんが遊び女・おりんである。制作統括の磯智明チーフ・プロデューサーは、「歩き巫女は集団で行動するので、千代の周りにいる女性たちの役でお声掛けさせていただきました。時には巫女、時には踊り子になったりするんですが、この2人もまたミステリアスで、踊りはもちろん、アクションも求められる役。藤岡弘、さんの娘さんで、幼い頃から所作や武芸を教わっているそうですし、日本舞踊もお得意と伺っております。どんな動きや踊りをお願いしても、まだお若いのにしっかりと果たして下さいます。愛らしい容姿からは想像できない、プロフェッショナルな能力をお持ちの姉妹です。今回の役柄にフィットしていますし、役者としてのポテンシャルも非常にあるお二人なので、オファーさせていただきました」と語っておられる。「アクションも求められる役」ということは、女忍者(くのいち)か? 千代=望月千代女の可能性が高い。

 韓国人は芸術面で優れた人が多く、日本で活躍している芸術家や芸能人の多くが、実は在日韓国人であるという都市伝説があるが、どうであろう?
 確かに『どうする家康』には在日韓国人が日本人風の芸名で出演しておられるが、それがどれ程の影響があるのか・・・「3代江戸に住めば、3世以降は「江戸っ子」と名乗れる」という。在日韓国人3世は、もう日本人ではないか? 確かに「紅白歌合戦に韓国人が出るのは、NHKのスタッフに在日韓国人が多いから」という噂は耳にするが、「芸能界の裏話」については詳しくないので、これまで。


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