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第7回「わしの家」(動画集)

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大河ドラマ「どうする家康」第7回「わしの家」はいかがでしたでしょうか?さて、今回に関する時代考証のポイントについてお話ししましょう。

(1)元康から家康への改名時期

 今回の物語は、松平元康が、今川義元から与えられた偏諱にもとづく「元康」を捨て、「家康」へと改名することで、今川氏との完全なる訣別を告げようとする思慮を重ねるという内容でした。そして、家康と改名することの意味を、「どうする家康」という物語において、どのように位置づけるかという、脚本の古沢さんの考え方を知る手がかりになる回でもあったと思います。設定は、永禄6年夏とあります。元康から家康への改名時期については、確実な史料では判然としません。『徳川幕府家譜』によると、改名は、永禄6年7月6日とされています。家康の発給文書から追ってみると、永禄6年6月日付の松平三蔵(直勝)殿、清水伝一郎殿宛は「蔵人元康(花押)」、永禄6年10月24日付の松平亀千代(家忠)殿、松井左近(忠次)とのへ宛は「家康(花押)」とあり、永禄6年6月から10月の間に「家康」へと改名したことがわかる。なお、年未詳8月28日付の長澤浄賢(親広)・同源七郎(康忠)殿宛には「岡蔵家康(花押)」(岡崎蔵人佐家康)とあり、この書状については、永禄6年から同9年という時間幅での年代比定に留まっている。もしこれが、永禄6年のものならば、改名時期はさらに限定されることになり、『徳川幕府家譜』の7月説が強まる可能性があります。残念ながら、確定はできませんが、7月説はかなり有力です。

(2)家康の「家」は何に由来するのか

 家康の諱にある「家」とは何に由来するのかをめぐっては、古来から議論があります。そもそも家康自身が、「家」の字の由来について語り残すことも、書き残すこともしていないため、彼の思惑は謎のままです。ただ、継父久松長家の影響によるものだという説は、何らの裏づけもない、印象論としかいいようがなく、まったく検討に値しません。松平・徳川氏の研究者は、そもそもこれを学説と認定すらしていません。最も可能性が高いのは、源氏の祖である、八幡太郎義家にあやかったというものでしょう。このことは、ドラマの台詞で触れられています。家康は、松平氏は源氏の流れを汲むと自認していました。この源氏意識は、祖父清康以来のものです。ただ、家康研究の碩学中村孝也氏は、『徳川家康伝』において、源義家の一字を戴いたとする説には否定的です。しかしながら、家康は、元亀3年9月22日、遠江国一宮小国神社に願文を奉納しており、その文中で「私は八幡太郎義家に繋がる者として、弓馬の家に生を受け、それを保持してきた」との趣旨を明記しています。この願文は、武田信玄の襲来前夜のものであり(信玄の遠江侵攻は、同年10月10日)、彼への対決を意識したものであることは、文面より明らかです。ここには、二つの意味が潜んでいるとみられます。一つは、自分は八幡太郎義家の子孫であり、それに相応しい武勇で信玄と戦うというもの、もう一つは家康は義家の子孫だが、信玄は義家の弟新羅三郎義光の子孫に過ぎず、家柄としては自分の方が高いのだという自意識です。ここに、家康の信玄に対する強烈なライバル意識がむきだしにされているのです。この他に、『三河物語』は、家康を八幡太郎義家の子孫として叙述していることはよく知られています。こうしたことから、今のところ、源義家に由来するという説が有力視されています。

(3)国を一つの家になぞらえ、家康にしたという設定について

 ところで、ドラマの中では、家康がもう一つの由来について触れるシーンがありました。それは、三河を一つの家だと考え、妻子、家臣、領民はすべて一つの家に住む親、子、兄弟のような間柄であり、これを保護するのが家康自身なのだという考えによると語られていました。この設定について、批判的な論調が見られましたので、コメントをさせていただきます。私は、古沢さんの脚本を拝読して、この設定は戦国期の大名や国衆の当主が意識していたとしてもまったく問題ないと判断し、修正意見をつけませんでした。それは何故か。これを説明する前に、まず当時の戦国大名の分国(領国)が何と呼称されていたかを紹介しておきましょう。それは「国家」です。この「国家」については、『日葡辞書』が「Cocca (コッカ)。クニ イエ 〈訳〉国と家または一族」と紹介しています。国とは、家(家を中心とする一族)の集合体という考えがあったのです。また「国家」は、戦国大名の領国そのものを指すという意味がありました。例えば、「朝倉孝景条々」に「諸卒を下知し、国家無恙候、於子々孫、守此旨候はは、日吉八幡之御教と混しく思はれ、国をたもち候はは、朝倉名字可相続」(第16条)とあります。朝倉孝景は、「家臣に命令を下し、国家(領国)を問題なく維持することを、子々孫々においてもよく遵守すれば、そしてこの考えを日吉八幡の御教えと同じように大切にして、国を保てば、朝倉家もまた続いていくことだろう」と述べています。武田信玄・勝頼も、「国家」は「御当家」(武田家当主)の力量によって保たれ、そこに住む家臣、国衆、領民の安寧が保障されるのだと繰り返し述べています。戦国史研究では、戦国大名は、自分の領国を「国家」と呼称し、領国下の地頭や民衆に対し「国家」への忠節を説き、動員への論拠としてもいたことは常識の範疇です(勝俣鎮夫『戦国法成立史論』『戦国時代論』)。このことは同時に、大名の当主には、「国家」を保つ器量が要請されるとの考えもまた存在しており、器量がなくば離叛も辞さぬという戦国の武家の論理も潜んでいるのです。武田信玄は、後に家康とともに今川氏真を滅ぼしますが、この時、信玄は氏真には「国家」を保つべき資質に欠けていたことが、今川を凋落させた原因だと指摘しています。もちろんこの理屈は、侵略者たる信玄の勝手な論理かも知れませんが、これまで紹介してきた「国家」と大名当主との関係についての意識を知っていれば、こうした理屈が出されてもおかしくないことが理解できるでしょう。このような事情もあり、私は古沢さんの「家康」の「家」は、「国家」を保つ責任を負う者であるという自意識に由来するとの設定に、賛意を表したわけです。もちろん、源義家にも由来するとの説はしっかり押さえてあるのですから、何ら問題をないと思います。自分の名前に「家」を冠することの意味を、三河国を一つの家と捉え、そこに住む人々を、身分の上下に関係なく、安泰にすることこそが、自分の使命であり、なすべきことと家康は心に決めたとしています。しかし、そこには早くも、自ら掲げた理想と現実とのギャップに直面し、戸惑い、悩む姿が浮き彫りになります。そのきっかけを作ったのが、上野城主酒井忠尚、東条城主吉良義昭、大草松平昌久の離叛や、一向宗との出会いだったという筋書きです。自分たち武家を悪し様に言い、阿弥陀仏の慈悲を称揚して人々を引きつける一向宗に対し、家康はならばどうすればいいのか、と率直に尋ねる。だが、納得できる回答はない。ここに、自らの家に、容易にはまつろわぬ集団が存在していることに、戸惑い、その対処に悩み、やがて彼らへの怒りを募らせていく家康の姿を、古沢さんは巧みに描き出しているように思えました。

(4)鴨田村について

 野寺本證寺の寺内町に潜入した家康、本多忠勝、榊原康政が、渡辺守綱に見とがめられた時に、とっさに「鴨田村の小平太でこぜいますだ」と返答していたのに、気づかれましたか? 実は、古沢さんの脚本の第一稿には「○○村」としかなく、どの村にするかは、私たちに委ねられました。そこで私は、鴨田村に設定するよう提案したのです。なぜかといえば、鴨田村は現在の岡崎市鴨田町にあたり、ここには松平家の菩提寺大樹寺(浄土宗)が存在するほか、多くの松平ゆかりの寺院があるからです。一向宗の有力寺院を訪れた百姓が、鴨田村在住ならば、一向宗とも縁が深い浄土宗の大樹寺のお膝元ということで、歓迎されるだろうと考えました。もちろん、一向宗寺院の寺内町ならば、身分、出自、宗教は問わないでしょうが、浄土宗ならばより馴染み深いと思いました。鴨田町の皆さん、いかがでしたか?楽しんでいただけましたでしょうか。

今回はここまでにします。寺内町や一向宗、一向一揆などについては、次回にしたいと思います。なお、本證寺の空誓や僧侶たちの袈裟、衣を始め、寺内町の様子などは、仏事考証、浄土真宗の専門家による考証の方々もおられるので、史料に裏づけられたものであることを付言しておきます。それでは、また次回。今宵はここまでにいたしとうござりまする。

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https://www.nhk.or.jp/ieyasu/column/2.html

平山先生のツイートには、たくさんの応援メッセージが・・・。
私の記事にはスキが数個つくだけで、応援メッセージは皆無(泣)。

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