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「三河一向一揆」の史料

「三河一向一揆」についての詳細は分かっているが、それは後世の本によってであり、創作部分が多いと考えられ、歴史学者は、『松平記』と『三河物語』のみを信用している。「三河一向一揆」の発端に関しては、『松平記』では上宮寺発端説、『三河物語』では本證寺発端説をとって異なるが、他は似ているので、『三河物語』は『松平記』を参考に書かれたと考えられている。(『三河物語』の著者・大久保忠教は永禄3年(1560年)生まれで、同書が「三河一向一揆」が始まった年とする永禄5年(1562年)には若干2歳であった。)

【第1級史料】皆無? 未発見?
・理由①:関係寺院が焼やかれて関連文書も焼失、散逸。
・理由②:一向宗が20年間禁制で、記録を書く者が不在。
・理由③:本願寺には無縁の一揆で、本願寺に記録が無い。
・松平家康発給文書(戦功による恩賞給与。戦功の詳細は不明)

【第2級史料】
・『松平記』
・『三河物語』(筆者は当時2歳)

【第3級史料】参戦した武将の家譜
・『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』
・蓬左文庫『渡辺忠右衛門覚書』(鶴舞図書館『守綱記』)
・『水野勝成覚書』

【第4級史料】その他の史料
・『三河記異考拾遺録』(後に『参州一向宗乱記』と改題):長文
・『永禄一揆由来』(勝鬘寺蔵):短文

★徳川家康に関する史料
・江戸幕府公式史書『徳川実紀』
・『徳川実紀』史料『朝野旧聞裒藁』(全1051/1093巻)
・大道寺友山三部作
 ・『岩淵夜話』
 ・『駿河土産』
 ・『徳川家康一代記』(後に『落穂集』と改題)(全15巻)

■『徳川実紀』(巻2)

 一向亂のとき、正月三日小豆坂の戰に、大見藤六は前夜まで御前に伺公し。明日の御軍議をきゝすまして賊徒に馳加はりしかば、君、近臣にむかひて、「明日はゆゝしき大事なれ。藤六さだめてこなたの計略を賊徒にもらしつらん。汝等よくよく戰を勵むべし。我もし討死せば藤六が首切て我に手向よ。これぞ二世までの忠功なれ」と仰けり。かくて明日、藤六と石川新七兩人眞先かけて攻きたり。新七は水野惣兵衙忠重が爲に突伏らる。藤六には水野太郞作正重打むかひ、「汝、のがすまじ」とて打むとす。藤六弓引て、「せがれめよらば、一矢に射とめむ」と、まち搆へたるをもかへりみず。正重鑓提て間近く進むに、流矢來て藤六が腕にたてば、弓矢を捨太刀拔んとする所へ正重鑓付しが、札堅くして徹らす。藤六、拔はなちて正重が胄を切けるにこれも切得ず。よて太郞作も鑓すて刀にて切り合ひ、終に藤六を切倒しければ、倒れながらせがれ無念なりとて念佛唱るところを其首打落す。かくて二人討れければ賊徒みな敗走す。正重藤六が首を御前へもち參りしかば、「藤六をば汝が討たるか。汝が一代の忠功なれ」と御稱譽あり。
 又、針崎を責られし時、御手鑓もて渡邊半之丞を突たまひしに薄手にて逃行所を、石川十郞右衛門、渡邊が前に立て君にむかひて突かゝる。其時內藤四郞左衛門正成はまだ甚一郞と云ひし比なるが、御側より弓引て二人を射る。二人とも射殺されければ賊徒直に敗走す。「正成は渡邊には甥なれども、大義、親を顧みず射倒せし」とて御感斜ならず。其比、織田殿諸家にてすぐれし武勇の者の名を記し、自ら點かけて置れしに、この正成も若年ながら點かゝりし者なりとぞ。〔貞享書上〕

 正月十一日、上和田の戰に賊徒多勢にて攻來り。味方難儀に及ぶよし聞しめし、御みづから單騎にて馳出で救はせ給ふ。その時、賊勢盛にして殆危急に見えければ、賊徒の中に土屋長吉重治といふ者、「われ宗門に與すといへども、正しく王の危難を見て救はざらんは本意にあらず。よし地獄に陷るとも何かいとはん」とて、鋒を倒にして賊徒の陣に向て戰死す。この日、御胄の內に銃丸二とゞまりけるが、御鎧かたければ裡かゝず。戰はててのち、石川家成に命ぜられ。重治が屍を求め出して御手をかけられいたく嘆惜し給ひ、上和田に葬らしめ厚く追善をいとなまれしとなん。
 
又、この日、柴田七九郞重政己が名を矢に彫て射たりしが、その矢に中り死するもの數十人。賊徒その精兵に感じ、重政が放ちし矢六十三すぢをとりあつめて御陣に送りしかば、君御覽じて、御賞譽のあまり、御諱の字賜ひ、「康政」とめされ、六十三の文字を旗の紋とし、名をも矢の數にならひ七九郞とめされしなり。〔東遷基業。岡崎記。貞享書上〕

 正月二日より十一日まで日每に數度の戰あり。御自も太刀擊し給ふこと度々なり。後年、伏見にて加藤主計頭淸正が謁見せし折、よも山の物語ありて、佐々成政が豐臣太閤の爲に肥後國收公せられ、淸正、小西兩人に分ち賜はりし時、國中一揆起りしを、淸正が武功にて速に打平げし事を仰出され、一揆の魁首木山彈正を討取しを、淸正いつも名譽におもひほこりかにいひ出ることなれど、「われもむかし領內に一揆おこりて日ごとに苦戰度々なりき」とて、新野何がしといふ者をめし出し、「彼等も弓もて我に近づき旣に射むとせしとき、われににらまれ弓を捨て遁たるを、汝は今に覺えたるか」と仰られしかば、淸正これをうけたまはりて、己が武功はいふにも足らぬ事とおもひ、且感じ且耻て御前を退きけるとぞ。〔續明良洪範〕

 門徒等、歸降の折約定ありしは、昔よりの門徒は御ゆるしあり。「その身一代門徒に歸依せしは、罪に處せられん」となり。しかるに、あまたの人の內に、昔よりの門徒も咎め仰付られんとありしに、「これは昔よりの門徒なり」と申上しかば、「むかしとは、伊弉諾伊弉冊の尊のことと思召されぬ。親鸞は近き世のことなり」とて科に處せられしもあり。又、戶田三郞右衛門忠次は、佐崎の本證寺にありと聞しめし。「たはけめ。彼は元來淨土門にて一向門徒にもあらざるを、呼」と有て召出されしに、忠次、人に語りしは、「殿の召るゝゆへ出ぬ。全く臆して狹間をくゞりしにあらず」とて、さて「三日の內にこの砦をせめ落さむ」と申す。「いかなる計略か有」とはせたまへば、「道塲の下水の樋の口廣し。これより人をいれて燒立るほどならば即座に落ん」といふ。よて大久保七郞右衛門忠世に命ぜられ、忠次を鄕導としかの砦を攻しめ、遂に是を陷る。この時、忠次奮戰して、鐵砲に中りて疵蒙りしかば、御感あつて國光の御脇差をたまひけるとぞ。〔古人物語。武德編年集成〕

 一亂おさまりて歸降の者とりどり見え奉りける內に、小栗又一忠政、御前に出ければ、君、忠政が胸元を捕へ給ひ、「汝、此後、宗門を改むべきや。さなからんには、只今一刀にさし殺さん」とて御指添をぬかせ給へば、忠政、いさゝか驚遽の樣なく、「御手討にならんとても改宗はなり難し」と申せば、「汝が樣なる者は、殺さんも無益なり」とて突放し給ふ。忠政、かさねて「只今こそ法華に改め候はん」といふ。君聞しめし、「手刄に逢ても改宗はならぬといふ詞の下より、又、法華にならんとは何事ぞ」と咎め給へば、忠政、「士たる者が御手討になるがおそろしとて改宗すべき哉。たゞ一命を御助あるといふ上命のかしこさを謝し奉らん爲に、法華にならんとは申ける」といへば、君もおぼえず御咲ありけるとなり。
 又、天野三郞兵衛康景も、おなじ門徒なりしが、此度、淨土に改宗して戰功を盡し。馬塲小平太といへる大剛の賊徒を討取しかば、御感有て阿彌陀の木像をたまはるといへり。〔續明良洪範。天野譜〕

 按に一說には、此事、石川又四郞が事とせり。又四郞、一向亂の後、信長に隨ひ、其後、またたちかへり、御鷹狩の御道筋にて見え奉りしに、又四郞が胸取て引よせ、御膝の下に組しかれ、「汝、淨土に改宗はすまじき哉」と宣へは、「いかにも成がたし」と申す。よて衝放給ひて「汝は普第の者にてはなきか」と仰らる。又四郞やがて起揚り容を改め、「仰のごとく、淨土に改むべし。さきのごとく御膝下に組しかれては、いかに主君にても御受は申上難し」とあれば、咲はせられしとなり。〔池田正印覺書〕

※太字部分と大河ドラマ『どうする家康』
 大河ドラマ『どうする家康』の土屋長吉重治は、軍師・本多正信の策であろうか、松平家康を細い路地に導き、松平家康は本多正信に鉄砲で撃たれた。銃声は2回。1発は松平家康の頭に当たり、松平家康は脳震盪で倒れ、一揆衆が槍で突くと、改心した土屋長吉重治が間に飛び入って松平家康の命を助けるも、(上和田城内ではなく)岡崎城内で絶命した。
 亡くなった上和田城址(上和田の「本多一族発祥地碑」の隣)に「土屋長吉碑」が建っている。


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