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第8回「三河一揆でどうする!」(動画集)

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大河ドラマ「どうする家康」第8回「三河一揆でどうする!」はいかがでしたでしょうか?さて、今回に関する時代考証のポイント解説をしましょう。

(1)一向宗の名称と信者たち

 教科書などで、親鸞を開祖とする教団は、浄土真宗とされ、これは一般常識となっています。ところが、親鸞は自身の宗派を恩師法然の教えを引き継ぐ「浄土真宗」と自認していました。そして蓮如は、これを継承して宗派名とすべく努力するのですが、浄土宗の反発などから実現せず、他宗派からの呼称である「一向宗」「一向衆」を受け入れざるをえなかったといわれています。ただ、教団内部では、浄土真宗、真宗と自称し、戦国期には「一向宗」も用いられるようになったようです。
 ところで、そもそも「一向宗」の「一向」とは、「一向専修」(ひたすら念仏に専修すること)が語源です。だが、「一向宗」は、もともと浄土真宗や本願寺教団とは同義語ではありません。実のところ、一向宗徒は、ほんらい真宗だけでなく、時宗、一向派(一向俊聖の時宗)を含む多様な念仏者を指すものでした。そのため、親鸞、一遍、俊聖それぞれの教義にはズレが多かったとされ、共通しているのは、念仏信仰という一点であり、その構成者は一般民衆はもちろん、山伏、巫女、琵琶法師などの民間宗教者や民間芸能者をも幅広く含まれていました。蓮如は、こうした民間宗教者や芸能者を門徒として迎え入れ、教団発展の裾野にしていきます。蓮如が彼らを受け入れたのは霊能、芸能などを通じて彼らが民衆に深く食い込んでいたからであり、それが一向宗伝道のためには大いに力を発揮すると考えたからとされています。
 なお、「一向衆」と「一向宗」が室町から戦国期にかけて混用されていますが、「衆」は信仰の集団、「宗」は、古代では学派、中世になると宗派、教団としての意味で用いられています。そして、「一向衆」から「一向宗」への展開は、本願寺派を中心とする真宗が、一宗派として自立し、他宗や武家などから認知されていく過程を示すものなのです。
 また、「一向宗」の別称として「無碍光宗」(むげこうしゅう)があります。これは、無碍光仏(阿弥陀仏の異称)に由来するもので、特に蓮如が「無碍光本尊」を信仰の核としていたことから、「一向宗」と並ぶ呼称となっていました。だがこの呼称については、京都五山の禅僧らが、「無碍光宗」を中国の白蓮教徒になぞらえ、蓮如と本願寺を邪教として批判したことから、一向宗の内部で対応がわかれることとなりました。邪教批判を恐れた高田専修寺(高田派)、仏光寺(仏光寺派)は、本願寺と混同されることを不快として、「無碍光宗」を拒否し「一向宗」を自称するのです。いっぽうで蓮如は、「無碍光宗」の宗名には肯定的で、戦国期において本願寺派や一向一揆を「無碍光宗」と呼ぶ事例も少なくありません。甲斐国でも、本願寺派を「無碍光宗」と呼ぶ事例が存在します。『勝山記』享禄5年条に「ムケカラ(ウ)宗」が法華宗と争ったことが記録されているのです。これは、山科本願寺が法華一揆と六角定頼軍によって没落させられたことを指しており、武装蜂起した本願寺門徒(一向一揆)の呼称であることが確かめられます。今回のドラマでは、「一向宗」の呼称を用いたのは、一般の方々にもよく知られたものであるというのが大きいですが、この真宗教団が、百姓、商工業者、武家だけでなく、アウトローや、上記のような、民間宗教者、民間芸能者など幅広い人々を門徒とし、彼らに支えられていたことを重視したからです。ドラマの中で、野寺本證寺の境内には、極めて雑多な身分、出自、職業の人々がいましたよね。なかには、盗みや人殺しをした者もいたことが表現されていました。これは、一向衆門徒の実態をできるだけ明示しようという、脚本家古沢さんの意欲的な試みだと思います。
 ちなみに、江戸幕府のもとで、真宗は「浄土真宗」を公称とすることを許されず、「一向宗」であることを強制されていました。「真宗」の公称は明治5年になってからであり、さらに本願寺派が「浄土真宗」を公称とするようになったのは、大戦後のことでなのです(他の宗派は「真宗」を用いています)。
(参考文献)神田千里『一向一揆と戦国社会』、安藤弥『戦国期宗教勢力史論』、草野顕之『戦国期本願寺教団史の研究』

(2)野寺本證寺の俯瞰図について

 今回は、野寺本證寺がCGで再現されていました。とてつもなく大きい寺院で、こんなのあるのか、との声が聞こえて参ります。でもあるんですよ、これが。お疑いの方は、恐らく野寺本證寺を見学されたことがないと思われます。本證寺は、現在では内堀、土塁に囲まれた本堂などがありますが、戦国期は広大な外堀に囲まれた巨大な寺域を誇っていました。現在も残る絵図と、地形、小字図をもとにした縄張復元がこれまで、千田嘉博氏を始め、何人もの研究者によってなされてきました。そして、今では発掘調査が進められており、外堀の確認などにより、縄張復元図の正しさが証明されています。その規模は、310×320メートルで、当時は99,200㎡もの広さでした。ちなみに東京ドームは、47,000㎡ですので、本證寺はその2.1倍もあるのです。外堀と土塁で囲繞された空間には、寺内町があったのですから、当時の本證寺は、町を内部に抱え込んだ、とてつもなく巨大な城郭寺院だったと想像されます。城郭研究者の多くは、当時の本證寺は、家康の本拠岡崎城と同等か、それより巨大だったのではないかと想定しています。なお、本證寺の堀に、蓮の花が咲いていましたね。でもドラマの表現はかなり控えめですよ。本證寺の蓮は、それはそれは見事で、盛りのときは堀の水面が花と葉で覆われ、まったく見えなくなるほどです。放送を御覧になった本證寺のご住職が「堀の蓮は、もっと盛ってくれてもよかったのに」と仰っておられました(笑)。

(3)「軍師」について

 今回のドラマでは、本多正信を、一向一揆方の「軍師」と位置づけています。これらはもちろん脚色です。そもそも、本多正信は反家康方でしたが、本證寺など一向衆寺院ではなく、上野城主酒井忠尚のもとで籠城していたといわれています。そのため、まともに家康と戦ったことはなかったと考えられます(酒井忠尚は籠城戦に徹しており、家康軍と交戦したという記録がない)。今回強調されている「軍師」ですが、戦国期の日本には存在しませんでした。大将の傍らで、軍事、計略、作戦全般を支える役職といわれていますが、戦国期の史料には一切登場しません。意外に思われる方は多いと思います。例えば、武田信玄の家臣山本勘助、豊臣秀吉の家臣黒田官兵衛などは、「軍師」として名高く、大河ドラマにもなりました。しかし、山本勘助の活躍を描く『甲陽軍鑑』ですら、勘助を「軍師」だとは一言も書いていないのです。彼はあくまで「足軽大将」でした。これらは、すべて後世の創作です。山本勘助を「軍師」としたのは、管見の限り、享保6年(1721)成立の浄瑠璃「信州川中島合戦」(近松門左衛門作)が最初で、これ以後、「武田信玄の軍師山本勘助」が定着していくのです。今回は、一揆側が家康軍に善戦した理由の一つとして、優秀な「軍師」が存在している設定とし、その人物を本多正信をしたことで、面白さが増したと思います。しかし残念なことに、「軍師」という役職は、戦国期には実在していないのです。それに近い言葉を探すとすれば「軍配者」ですが、彼らの役目は、「奇特」(不可思議な霊力)を持ち、日取り、月取りなどから合戦の吉凶を占う者のことで、軍勢の指揮などを主君に代わって行ったり、軍略などに関わる存在ではありません。歴史学者の一部には、「軍師」の言葉を平気で使用したり、「軍師」=「軍配者」とする方がおられますが、実証されていないことをここであらためて確認しておきます。

(4)寺内町

 本證寺の寺内町が、セットやCGで再現されたのは、今回が初めてではないでしょうか。その規模や内実については、史料が残されておらず、想定復元をするしかありません。今回、配慮されていたのが、町場が雑然としていたことです。寺内町といえば、短冊形地割による整然とした区画に、町場が建てられている情景を思い浮かべがちですが、こうした景観は、織豊期以降のものだと指摘されています。戦国期の寺内町は、もっと雑然と町家が建てられていたのではないかといわれているのです。今回、ゴチャゴチャとした設定は、当時の寺内町の想定に近く、町場の人々が集まり芸能や講話が行われることもしっかりと表現されていました。また、家康らが町家が毎日開いていることに驚いたシーンが第7回にあったと思いますが、あれは当時の人々には驚きだったはずです。当時は、京などの一部の巨大都市を除き、地方では六斎市(月六日の定期市)が一般的でした。戦国期の各国には、複数の六斎市が分布しており、毎日どこかで市が開催されている状況でした。しかしほぼ毎日店舗が営業するというのは、まずなかったと考えられます。武田氏の本拠甲府でも、最大の商業地域は八日市場と三日市場でした。ただ、現在の甲府城跡の場所は、当時一条小山と呼ばれ、その麓には時宗一蓮寺があり、周囲には門前町が展開していました。この一蓮寺門前町は、武田信虎の甲府開府以前から存在していた町場で、秩父往還、青梅街道、甲州道(近世の甲州街道)、鎌倉街道、若彦路、佐久往還などが入り込んでおり、当時としては巨大な町場でした。その実態はほとんどわかりませんが、常設店舗があった可能性があります。つまり、それだけ賑わっていたということですね。甲府も、信玄時代になると、常設店舗の存在が推測されます。それは「町棚役」が創設されるからです。つまり、町棚(商品の陳列棚)に課税できるほど、商業が繁栄していたとみられるからです。戦国大名の城下町は、規模の大小を問わず、寺社の門前、六斎市などを含み込んだ、複合都市だったと考えられます。
 それに対し、一向衆寺院の寺内町は、住人の数、周辺への影響力などを勘案すれば、地方では比類ない都市だったはずです。野寺本證寺、針崎勝鬘寺、佐々木上宮寺、土呂本宗寺などは、いずれも矢作川水運、塩の道、東海道やその枝道などを押さえる位置にありました。家康の本拠岡崎城よりも繁栄していた可能性があるのです。今回は、その繁栄ぶりを、セットやCGで表現できていたと私は考えています。大河で、地方の一向宗寺院の寺内町が、本格的に表現されたのは初めてではないでしょうか。
 なお、都市の定義ですが、①一定の区域における人口密度が極端に高いこと、②居住者の出身地が多様であること、③居住者の職業が雑多であること、④居住者の職業が、商人、職人などの割合が高いこと、などを想定しています(これは私個人の研究による実感です)。

(3)夏目広次と土屋重治

 家康の家臣として、一揆側に荷担した夏目広次と土屋重治が登場しました。とりわけ夏目広次は、一揆側と戦うのをためらい、苦悩する姿が印象的でした。これは、家康家臣らのほとんどの気持ちを代弁するものだったと思います。宿老石川数正ですら一向宗門徒であり、一揆勃発に際しては浄土宗に改宗して家康を支える苦衷を経験しているのです。切り結ぶ敵味方が、なんと主君と家来だったという展開、そして主君を斬れぬ家来が、自らその刃を身体に当てて死んでいく姿、それに慟哭する主君、三河一向一揆の悲劇を実によく表現していたと思います。
 ここで登場する夏目広次は、初期の家康を支えた重臣でした。かの文豪夏目漱石の祖先といわれています。江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』など、幕府の諸記録では、「夏目吉信」とされてきました。しかし、永禄12年12月23日、家康が紀伊国熊野山実報院に、遠江国山野庄土橋郷(静岡県袋井市)を寄進した時の奉書に、「夏目次郎左衛門尉広次(花押)」とあり、当時の家康重臣層に、夏目姓で、次郎左衛門尉の官名は、「吉信」以外にはおらず、系図類の「吉信」は誤りで、「広次」が正しいことが判明しました。そこでドラマでは「広次」で登場するのです。いまだに、元は吉信で、広次は改名だと主張する人がいると仄聞しますが、根拠がなく、私としては受け入れることは出来ません。
 次に、三河一向一揆のヒーローといえば、土屋長吉重治を思い浮かべる人も多いでしょう。一揆側に荷担したのに、家康の危機を座視しえず、彼を庇って戦死したという逸話は、広く知られています。ただ、彼の事績は、史料によって相違します。江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』によると、土屋重治は、大久保忠世らの守る上和田砦を助けに向かい、一揆勢と戦って戦死したとあるのみで、家康を助けたとか、身代わりになったどころか、一揆側ですらないことになっています。江戸幕府の旗本土屋家では、重治は一貫して家康側であり、一揆勢と戦って戦死したと伝えられていたのです。また同書によると、重治の仮名は「惣兵衛のち甚助」とあり、長吉ではありません。ところが、『徳川実紀』『武徳編年集成』にはまったく真逆の記述が登場します。上和田砦を支援すべく出馬してきた家康が、一揆勢の攻撃で危うくなった時、一揆側の土屋長吉重治は、「宗門のために主君に叛き骨を砕き戦に励んできた。だが今また主君の危難をみて、今度は宗門に叛く。私は未来堕獄の身となろうとも、主君のために死のうと思う」と周囲によばわり、敵中に突入して矢を受けて討死した。この姿に、誰もが感動したといい、戦後家康は石川家成に命じて重治の遺骸を探索させ、その死を嘆いたといいます。そして上和田に手厚く葬ったと記録されています。諸書によると、土屋長吉重治は享年22。『寛政譜』の土屋重治は享年45。同一人物には見えないのですが、今回は著名な逸話を採用し、ドラマに織り込んでいます。なお、土屋重治の慰霊碑は、大久保一族発祥の地で、上和田砦の跡と伝わる上和田公民館敷地内にあります。

(4)「三河一揆」という題名について

 今回のドラマのテーマが、なぜ「三河一向一揆」ではなく「三河一揆」なのか。過去に放送された大河ドラマ「徳川家康」では「三河一向一揆」でした。それには理由があります。近年、村岡幹生氏の精力的な研究によって、永禄6年秋から同7年春までの西三河争乱は、三河一向一揆だけでは片付けられぬ問題があると認識されるようになったからです。永禄6年4月、今川氏真は「三州急用」といって、三河攻めのための臨時課税を全領国に通達しました。これに呼応して、6月までには家康重臣で酒井忠次の一族、上野城主酒井将監忠尚が、さらに東条城で吉良義昭、桜井城主桜井松平家次、大草松平昌久などが次々に叛乱を起こしました。これは、今川氏に呼応した反家康叛乱です。そこに、三河一向一揆が重なり、勃発したのです。一向一揆の蜂起には、酒井忠尚や吉良義昭らが使嗾していたと『松平記』などにあり、反家康叛乱と三河一向一揆は結びついていたと考えられるようになりました。そこで、単なる三河一向一揆ではなく、三河一揆といわれるようになったのです。ただ、それにしては双方に緊密な連携や、活動があった形跡はなく、家康を潰す最大の好機だったにもかかわらず、酒井忠尚、吉良義昭、松平昌久らは原則、籠城戦に徹し、家康とは交戦した形跡がありません。これは今川氏真の襲来を待っていたとみられます。ところが、氏真はそれどころではありませんでした。三河一向一揆が勃発した、同じ永禄6年12月、遠州で氏真に対する大反乱(遠州忩劇)が発生したのです。今川軍が、吉良らと連合して家康を攻め潰す可能性はなくなりました。こうして反家康一揆は、連携することなく各個撃破され、鎮圧されていったのです。
(参考文献) 村岡幹生『戦国期三河松平氏の研究』岩田書院・2023年

(5)「国家」再論

 第7回の呟きで、家康の改名には、三河を一つの家と捉え、それに平穏をもたらしたいという彼の願いが込められていたことについて解説しました。戦国大名は、自らの領国を「国家」と呼び、それは、国とは、家(家を中心とする一族)の集合体という意識が実在したと紹介しました。その後、一部の方々から、「家」というのは家臣など武家を指すのであって、百姓を始めとする民衆など含んでいない、とのコメントが寄せられました。残念ながら、当時の「家」は、民衆のそれをも包含するものです。戦国大名の主要財源が何か、ご存じですか? 「年貢」と回答した方は×です。「年貢」は原則として水田から米を納めさせるものです(但し、地域の特性により塩などの特産物が「年貢」となっていたことは、かつて網野善彦氏が明らかにした通りです)。戦国大名の手元に、「年貢」が入ってくるとすれば、それは御料所(直轄領)からです。実は戦国大名の主要財源は、諸役(公事)です。とりわけ、一国平均役の系譜を引く、棟別や段銭(反銭)が中心です。このうち、棟別は、家に賦課されていました。ただし、村や町にあるすべての家に賦課されていたわけではありません。後家、老人、芸能民等々(ここでは表記できない人々も含む)は、課税の対象から外されていました。また、棟別を負担すべき家は、村町の内部であらかじめ決められていました。それは、村町を構成する本家と呼ばれる階層で、新屋(新家とも、一族や本家に家の創設を認められたもと奉公人など)は負担させられることはありませんでした(但し、戦国時代後半には大名側の要請で彼らも課税の対象となりました)。棟別を負担する民衆は、まさに国を支える存在だったのです。当時の史料に、一国平均役や百姓役などを「国にこれある者の役」とあるのは、まさにそれを端的に示す文言といえます。戦国大名の領国(分国)=「国家」とは、武家のみならず、民衆をも含み込む存在だったということができるのです。

 以上で、第8回の解説を終わります。

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