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第9回「守るべきもの」(復習)

永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)6月    上野城の酒井忠尚が挙兵
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月    東条城の吉良義昭が挙兵
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)1月11日 土屋長吉重治没
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄9年(1566年)5月     「三河国平定」(牛久保の牧野氏が従属)
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。三河守叙任。

 「わしの家」「三河一揆でどうする!」「守るべきもの」と3回にわたって「三河一向一揆」を描いたのは、多分、大河ドラマ初。また、「一向宗門徒 vs 松平家康」のみではなく、武士同士の戦いもあったとして「三河一揆」と呼ぶ最新の学説を取り入れ、夏目広次主従の戦闘と夏目広次の離反を描いたが、色男殿・大久保忠世が左目を射られて隻眼の伊達男殿になるシーンは描かれず、中心は「本證寺・空誓+軍師・本多正信 vs 松平家康」であった。

 史実はといえば、本多正信は本證寺ではなく、酒井忠尚の上野上村城にいた。そして、その上野上村城を攻めたのが、上野上村城の近くの上野下村城で生まれ、母の実家である鴛鴨城を拠点として戦った榊原康政である。
 また、色男殿・大久保忠世は、大久保忠世の弟・大久保忠教が書いた『三河物語』に「眼を射られ」とある。弟が兄のことを知らないはずがなく、大久保忠世は目を射られて隻眼になったはずであるが、包帯をとったら大丈夫であった。一説に、石礫が当たって腫れていただけだという。

 小身人なれば、具足も持たれまじく候。笑止に存ずる間、「是を餞別に参らする」とて、具足の少々ちぎれたるを1領贈りたり。其の後、康政、此の具足を着て高名あり。それより嘉例として、出陣の時は、其の具足を真っ先に持たせしとぞ。

(小平太(榊原康政)は、父は上野下村城の城主、母は鴛鴨城主の娘であるが、永禄5年(1562年)に父が亡くなって以降は貧乏で、家来は0人。初陣「三河一向一揆」で身に纏う甲冑を買うお金もなかったが、大樹寺で学んでいた時の学友が「餞別に」とお古の甲冑を1セット、プレゼントしてくれた。この「ちぎれ具足」を着て後、上野上村城の元主君・酒井忠尚と戦って功名をあげ、裕福になって具足を新調したが、出陣の際には「縁起物だから」と、この古い「ちぎれ具足」を持って行ったという。)

『名将言行禄』「榊原康政」

1.本多正信の言葉と著書


松平家康「正信は?」
服部半蔵「申し上げる事はないと」
いや、言いたい事が多すぎ。(服部半蔵はお笑い担当?)

殿は、阿弥陀仏にすがる者たちの心をご存知ない。毎日たらふく飯を食い、おのれの妻と子を助けるために戦をするようなお方には、日々の米1粒のために。殺し合い、奪い合う者たちの気持ちがは、お分かりにならぬのでしょう。仏にすがるのは、現世が苦しいからじゃ。生きているのが辛いからじゃ。殿が、お前が、民を楽にしてやれるのなら、誰も仏にすがらずに済むんじゃ。そのために民はお前にたらふく米を食わせているんじゃ。己はそれを為さずして、民から救いの場を奪うとは何事か。この大たわけけが。

『どうする家康』「守るべきもの」

 「上ノ郷城攻め」は、三河国内の今川勢力排除のための戦であり、「おのれの妻と子を助けるための戦」ではないと思うが。(そもそもこのドラマの本多正信は、この「上ノ郷城攻め」に反対せず、「妻と子を助けるために」と提案した参謀的な存在であったはず。)

 「仏にすがるのは、現世が苦しいからじゃ」というのはその通りだと思うが、松平家康は、苦しい農民を襲ってはいない。裕福な一向宗の寺を襲ったのであって、寺側が寺侍だけで戦わず、(千代が扇動して)農民を戦闘に加え、軍師・本多正信が指揮したのである。

 以上、本多正信の話は正論であるが「どの口が言う!」と言い返したい。

 本多正信は、「三河国追放」と処断された。という事は、次回の登場は三河国外になろう。(本多正信の帰参時期については、諸説ある。「姉川の戦い」の直前とも、「本能寺の変」の直前とも。)

 今回のサブタイトルは「守るべきもの」であり、「守るべきものは民と家臣」であることを松平家康は再確認した。

 ラストシーン──終戦は旧暦2月28日。これは新暦4月9日に相当し、桜の花びらが舞っていた。当時の事はいざ知らず、現在の岡崎城(を含む岡崎公園)は桜の名所である。冒頭シーンのピンクの花びらは踊りを盛り上げるための作り物ですかね。ざるに入れた花びらを散らす──『鎌倉殿の13人』の伊東八重へのオマージュか。


2.歩き巫女


★以前書いた「歩き巫女」の記事↓

 「三河一向一揆」の黒幕は武田信玄であり、歩き巫女(女忍者)・望月千代女(名前の後につける「女」「男」は性別を示す書き言葉)に扇動させるという新説──史実の黒幕は武田信玄ではなく、今川氏真だと思うぞ。

 脚本家様へ。服部党 vs 歩き巫女軍団のバトルを見たいです!!!

 忍者といえば、伊賀流と甲賀流が有名であるが、戸隠流もある。
 今回、ラストシーンの杉並木と鬱蒼とした山門が印象的であったが、あれは戸隠神社の奥社参道と随神門である。
https://www.togakushi-jinja.jp/news/post-834.php



3.吉良氏


「足利氏の第二の故郷」と言われる三河国において、分家・吉良氏(本貫地は吉良庄)が生まれ、吉良氏から分家・今川氏(本貫地は今川)が生まれた。吉良氏にしても、今川氏にしても、三河国は故郷(本貫地がある国)であるから、どちらも松平氏(本貫地は奥三河の松平郷)を倒して、三河国の国主になりたいと思っていたことであろう。

西尾市「吉良氏の歴史」
https://www.city.nishio.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/008/112/030206.pdf

吉良庄は東条と西条に分かれており、西条城が西尾城になったとされる。

■西尾の抹茶

 「西尾の抹茶」の起源は、「明治5年(1872年)頃に紅樹院の住職・足立順道師が宇治から茶種と製茶技術を導入したこと」だというが、明治以前にも小規模ながら製茶技術が土呂から伝えられていたとも。

★土呂茶

 江戸時代、三河国でお茶といえば、「土呂茶」であった。
 初花・・・お茶壷道中・・・そして、綾鷹。


★今後の『どうする家康』
・第10回「側室をどうする!」
・第11回「信玄との密約」
・第12回「氏真」
※ノベライズの2巻は3/17発売。

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