岡林 俊希

浄土真宗本願寺派西念寺住職。広い視野からお念仏と私を探究しています。

岡林 俊希

浄土真宗本願寺派西念寺住職。広い視野からお念仏と私を探究しています。

最近の記事

虚仮なる私になぜ真実が分かるのかについての断章

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」歎異抄 虚仮不実なものの中に私も入っているのに、なぜ念仏のみぞまことにておはしますと言えるのか、誰がいっているのかという問題が究極的な真宗の論点だと改めて思った。  私が虚仮であると言い切れるのは、真実である念仏にであった時である。真実の中に虚仮なる私も含まれている。あなたは本当に自分で虚仮と言い切れますか。救いを問題にしていませんか。  

    • 再生

      自分の領解

      私のリリックにenjuさんがトラックをつけて、ラップで歌ってくれました。かっこいいです。

      • 本願寺の正統性と相承

        次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候。               『領解文』蓮如 領解文の師徳の段  本願寺の正統性の根拠は親鸞聖人から次第相承の歴代のご門主によって法脈が受け継がれてきたことによっている。 相承とは浄土宗大辞典によると 相承には、師弟の間で法門や衣鉢あるいは血脈譜を直接に授受する(印可を得る)場合と、夢告や経文によって法義を伝承する場合とがある。前者を直接相承・面受相承・知識相承・次第相承・口訣相承といい、後者を依憑相承・

        • 機の深信とは救済の自覚である(閲覧注意!宗教的に厳しい内容あり)

          一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。 ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。 如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。 すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はること

        虚仮なる私になぜ真実が分かるのかについての断章

          真宗者の社会的実践

           本願寺派の安居(年に一度の僧侶の教学研鑽会)の特別論題が真宗者の社会的実践であった際に私の考えをまとめたものです。昨今のカルト問題などを考える上で参考になればと少し改訂しつつ、ここに発表いたします。   本文 安居の感想   今日の特別論題、テーマは念仏者の社会的実践、いろんな議論がきけてとてもよかったです。  その中に、念仏者が無条件におこすべき具体的行動について問われていましたので自分なりに考えてみました。  それで思いついたことは、相手の意思を尊重し、自分の考

          真宗者の社会的実践

          カルト教祖と善知識の違い

          何度も言及しているが、カルト問題に取り組む大谷派僧侶某師はカルト的教祖を嫌がるあまり、善知識を毛嫌いし、迷ってる者同士が共に目覚める仏法などと説いている。釈尊が弟子の阿難に目覚めさせられるなどと説いているが、そんなことはありえない。釈尊は絶対的な善知識である。阿弥陀如来の本願は仏々相念の世界で、釈尊でなければ知ることも説くこともできないのである。そして、その教えの肝要を時機に応じて説き述べて下さった七祖・宗祖いまさずは、この私が迷いを出離し、浄土へ往生することはできないの

          カルト教祖と善知識の違い

          信心の成立についての矛盾

          信心成立には衆生の三業は関わらないという宗学のテーゼと、信心とは仏願の生起本末・名号を聞き開くことである(聞くというからには意味認識が関係してしている)の矛盾が多くの難問を発生させている。一念覚不における足利義山の心相覚知説(真宗の信心は心相があり無念夢想ではない、聞いて解了するのであり、寝ている時にはおきないのであるから覚知なしとはいえない)と利井鮮妙の信心非意業説との論争もそうである。三業派を批判することに活躍した大谷派の宝厳も信心意業説を説いて排斥された。こうなれば、信

          信心の成立についての矛盾

          『なぜカルトに惹かれるのか』瓜生崇 書評

          大谷派僧侶瓜生崇さんの著書『なぜカルトに惹かれるのか』を読み氏の広島の真宗学寮(本願寺派)での講演を聞いて感じたことを述べたい。基本的には書評。  まずはなにがカルトかを見た目の異様さや教義のおかしさで判断してはいけないこと。重大な人権侵害があってはじめてカルトと言えること。カルト問題は基本的に人権問題であるということ。  またカルトからの脱会支援については「安易な世俗の社会の側での価値観で、カルト信者を見ないこと。かれらは世俗の価値観では解決しない真実への希求があってカルト

          『なぜカルトに惹かれるのか』瓜生崇 書評

          やわらかい心をはぐくむ〜疫病の時代の処方箋〜

          それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。                               (無量寿経)  みなさま、こんにちは。私は、名古屋市にあります浄土真宗本願寺派・西念寺の住職をしております岡林俊希と申します。どうぞみなさま、心と身体を楽にしてお聞きいただきたいと思います。今回、このようなかたちでご法話をYOUTUBEに投稿させていただきましたのは、このコロナ危機の中で、私が僧侶として何かできることはないかと考えまして、やはりこういう

          やわらかい心をはぐくむ〜疫病の時代の処方箋〜

          夢とシンクロニシティ

          今日の朝、かなりカラフルな夢を見た。吉本芸人で芸達者で有名なぐっさん(山口智充)が80年代後半に桑田佳祐が率いていたKUWATA BANDの曲を街中(大阪?河内地方かな)でノリノリで歌いまくるというものだった。ぐっさんは本人よりうまいんじゃないかと思う曲も多いぐらいのすごい歌唱力である。私の中で少年時代に聞いていた桑田サウンドのリズムが踊りだした。そして、最後にぐっさんがなぜかほこらの中にある蘇我馬子と向かいあうシーンで終わった。蘇我馬子はかなりのイケメンで優雅に足を組んだス

          夢とシンクロニシティ

          信心は普遍的体験か個人的体験か? 私の信仰告白

          ある方に信心は普遍的な体験であり事実であるから、その心相(信心のすがた)とされる二種深信などにも個人的な体験の入る余地はない、だから信心を語る場合に個人的な体験を語る必要はないと言われた。おそらく信心の成立には衆生の三業は一切関与しないという浄土真宗本願寺派の伝統宗学の教義を受けてのことだと思う。そこで私の信心における二種深信を告白して、その問題について考えてみたい。 私は信心を個人的な体験の入る余地のない普遍的体験と捉えることはしない。個人的でありながら普遍的な体験であり

          信心は普遍的体験か個人的体験か? 私の信仰告白

          「無宗教」の日本人とお葬式

          愛知県の企業が「お坊さんのいないお葬式」を提案し、サービス開始に向けてテレビ、新聞等で広告をうっています。テレビCMでは初老の男性が「なぜ無宗教なのにお坊さんをよぶのだろう」と言っています。  少し話題になりそうなので、この際、一般家庭から僧侶となって、葬儀に関わるようになり感じたこと、考えたことを言わせていただきます。    まず日本人は無宗教であるということについて。特定の宗派等には帰属意識のない方がおられて、それで自分は無宗教だと自覚されておられる方が多いのだろうと思い

          「無宗教」の日本人とお葬式

          動物は往生できるのか

          先日、NHKおはよう日本でのペットと一緒に入るお墓と仏教の教義についてのニュースを見て少し思うところがあったので、しるしてみます。  ペットと一緒にお墓に入りたいという多くの方の要望に対して、浄土宗の研究員の方が経典と解釈を見直した結果、畜生(動物)も死んで次の生に極楽浄土へ生まれることができるという根拠を見出したので、教理として(ペットと一緒にお墓に入ることは)問題ないという回答を出したという内容でした。  私としては、人生をともにすごした大切なパートナであるペットを弔いた

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