瓜生崇師の応答への返答 

瓜生崇師が私への応答の中で、自説と同じと紹介している梯実圓勧学と瓜生師の違いを説明します。

無上上は真解脱 真解脱は如来なり
真解脱にいたりてぞ 無愛無疑とはあらわるる
 
瓜生師は上のご文をあげて衆生の疑いは決してなくならない根拠とし、そのことは梯実圓和上も仰っているとして動画からの法話の引用をあげています。
 (以下梯和上の法話)
本願を疑いなく受け入れるということは、これ実は私に出来ることではない。
人間の特徴は計らうことが特徴。計り知ることとは分別して、これはこれ、あれはあれと分けて、間違っている正しいと決定して、決定に向かって行動していく。これが人間の心ですから、人間の心は分別を本質としている。自分の分別をまじえないで受け入れるというのは不可能です。
信心はどこで成立しているのかというと、疑いのない心というのは如来にしか無いのだと親鸞聖人は言い切ってしまう。
和讃に、「真解脱は如来なり 真解脱にいたりてぞ 無愛無疑とはあらわるる」とある。つまり煩悩が完全にないという状態と、疑いが完全にないという状態は、ただ如来にのみあることで、人間にあることではない。
人間にあることでないはずの無疑が人間にもたらされるのが本願の信心なんだ。信心は人間が起こせるものではなくて、如来から賜った心なのだ。
人間の心はどれだけひっくり返したところで、疑いなき心は出てこないんだ。したがって信楽というのは、如来の上にだけあることなんだ、というんです。
                                                                    以上
ここから瓜生師は
 
和上は「信心は如来の上にあるのだ」と仰ってるだけなのです。そして私も同様に「凡夫の疑いがなくなるのが信心ではなく、如来から真実心である名号が届いたことを信心という。その名号を聞く一念において、凡夫の身に『疑心あることなし』という信心が成就する」と、事あるごとに話しています。
 
と言っていますが、瓜生師の問題は聞く名号の上にのみ無疑心が成立し、衆生の疑いは残ったままだというところに問題があるのです。
 
梯和上の法話の続きを聞くと以下のようなことばがあります。
 
助ける如来が疑いをもってらっしゃらないのに、私が疑うのは義理悪いでということになってきますと、さよか、ということで聞くだけだ。それが信というものなんだ。この時に、如来の決定心、如来の疑いなき心が私に響いてきて、そして如来の疑いなき心が私の上に響き渡った時に、私の上に信楽というのが成立するんだと。
 
疑いは如来の疑いなき心、私を救うことについて疑いがないことを聞いたなら、私が助かることについて私は疑いがなくなっているこれは私の現実に成立することです。
                                                                                                           

                               (以上引用)
信楽が成立する、私が助かることについて私は疑いがなくなっていると述べられています。(そもそも瓜生師の太字部分にも賜るということがあります)。如来の上に成就した無疑心が衆生に回向されて、疑いがなくなっている状態が成立すると梯師はのべています。
 
結論として衆生にある疑愛の疑は如来の信心の回向によって今生でなくなり、愛は残るけれども障りにならなくなるといわれます。
 
梯師と瓜生師の主張とは違います。瓜生師は確かに信の一念に無疑心を語っていますが、その後にも衆生の心には疑いが残っていることが問題なのです。ですから信を獲得しているにもかかわらず、自分の心にとりこむと疑城胎宮になるなどという特異な理解になるのです。しかもこの法話の時点では瓜生師の一念には相続の概念がありませんでした。他力の信は信の一念で成立すると臨終まで一貫して相続するものであるのに、瓜生師の信の一念は名号を聞いた瞬間に限定され、時間と空間の分別におおわれている私の心にとりこむと自力疑心になるというのです。無疑心が私の上で成立するから、分別煩悩が障げとならなくなるという梯和上の法話とはまったく違う理解と言わなければなりません。
 
そもそも瓜生師は応答に貼ってある教義解釈的にあらかたおこたえしているという動画で
「真実信心というものに、私は貫かれたときに俺は間違いなく疑いがなくなって浄土に生まれていくもんなんだってことが、わが身に知られていくんじゃなくて。私というものはどこどこまでも自力によって如来と取引をして救われていこうという私だということが知られるんじゃないですかね。」
 
と、信一念で疑いがなくなるなどということはなく、自力疑心によって如来と取引するすがたが知られるというのです。
それに対して、本願寺派の安心論題における二種深信とは如来の仰せに対して無疑が成立して自力無効、煩悩具足を信知し、他力全託、本願力を信知します。他力によって、自力は滅ぼされます。瓜生師はこの告白からして信心をえても疑心は残るという主張であり、本願寺派の二種深信とは異なっているといえます。
 
 以上で瓜生師と梯実圓和上が同じ安心理解でないことがおわかりいただけたと思います。他力回向によって私の信心が成立する、信心の体は如来であるが無疑の心相は衆生に成立するのです。これはそれに続く稲城選恵和上の引文も同じことです。無義の心相は衆生の側にあらわれるので、如来の仰せに対して疑いはなくなるのです。
結論として、信心をうれば、衆生の側に無疑の心相があらわれ、それは臨終まで一貫し、本願を憶念し仏恩を報ずる相続心があらわれるのですから、信心が定まる、信心が決定する、金剛心であると、親鸞聖人はお述べになるのです。このことを瓜生師は理解していないので、如来から回向される信心の相である機の深信をみずから作り出し、機の深信からの悲歎と自力疑心を混同しているお話をされるのでしょう。
 
そもそも、ご自身の告白で「信心を得ても疑心はなくならない」と明言されていますので、瓜生師が親鸞聖人がおっしゃる信の一念で疑いがなくなるというご法義と異なっていることはこれ以上細かく論証する必要もないでしょう。
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?