瓜生崇師の如来は信・疑を差別せず救うという説についての問題提起(特に本願寺派の方へ)

 みなさんこんにちは。私は名古屋市にあります浄土真宗本願寺派西念寺の住職をしております岡林俊希と申します。今回は私が非常に問題だと思った教説についてなるべくわかりやすくお話したいと思います。特に浄土真宗本願寺派の僧侶・門徒の方に聞いていただきたいと思います。

 その教説とは瓜生崇師が述べる説であります。瓜生崇師は学生時代から親鸞会で活動し、講師としてインターネット対策員などをしていたが、活動に疑問を持つようになって脱会し、現在では真宗大谷派の僧侶として活動されています。ご自身の経験をいかしてカルト問題などで著書も出され、新聞・テレビ等でも意見を述べられている宗教界では著名人といってもいいでしょう。本願寺派はもともと親鸞会の会長高森師が所属していたところであり、ある時期には本願寺派と親鸞会は論争を繰り返していたこともあって、本願寺派にとっては瓜生師の意見は貴重なものであったのでしょう。カルト問題についての講師として多数呼ばれているようです。また、布教大会や布教使育成講座などを行い、仏教書の電子書籍の出版や、法話配信サイトの開設などにも活躍されています。そしてご自身の法話も継続的に配信され、その影響力はとても大きいといえましょう。新しいところでは本願寺派の「新しい領解文」問題の動画配信で司会やコメンテーターなどをされていました。

 しかし瓜生師の法話の内容について私は以前から疑問・不審な点を持っており、いくつか批判を書かせていただいていました。「宗教体験」「善知識」などについてです。だがそれは、私の教義理解からの個人的な批判にとどまるものでした。ですが、最近の動画を見てこれは看過することのできない教義理解であると思い至りました。それは本願寺派では浄土真宗の教義の根幹を揺るがす異義とされているものだったからです。それは疑心往生の異義といわれるものです。

 本願寺派は700年以上続いてきた伝統仏教教団であります。僧侶・門徒が力を合わせて浄土真宗のみ教えを守ってまいりました。特に江戸時代中期以降は現代につながる勧学寮制度ができて、勧学・司教といった学僧が議論を積み重ねて、正しい教義理解の枠組みを作ってきました。その中でも真実信心(他力信心)を中心とした私たちの往生に関わるような大切な問題が安心論題としてまとめられています。ここには私たちが守るべき信心についての正しい理解と間違った理解が区別されています。この間違った理解を異安心・異義といいます。僧侶がこの異安心・異義を布教しますと、本願寺派の僧侶として信頼してお話を聞く御門徒方をまどわすことになりますので、厳しく注意を受けたり、最悪の場合は教団を追放されることもありました。そのことの是非はともかくとして、安心論題は先人が大切に守ってきた教団としての集合知であることは間違いないでしょう。その教えに従うにしても、それとは違う説をとなえるにしても教団人としては尊重すべき一つの基準であります。そこに書かれている論理と理由については耳を傾けるべきでしょう。その安心論題からいいますと瓜生崇師は明確に疑心往生の異義といわざるをえないのであります。

 瓜生師の説が論理的に明確に述べられている書物は見当たりませんので、書物から引用することはできないので、動画配信での法話を聞いたところを私がまとめますと以下のとおりです。疑心往生説が明確に見られるのは YouTube『浄土真宗の法話配信』チャンネル 唯信鈔文意を読む(13)「信心をうればすなわち往生すという」[シリーズ 晩年の親鸞聖人に遇う]です。

4:00〜
・凡夫が本願をまちがいなく信じることはありえない。
            (本願を信じるという意味が親鸞聖人と異なっている)
・本願を信じているという人は、自分で自分の心をながめて正しいと思っているだけ。           (真実信心の信相を理解していない)
・かちっと信じているときは救われて、崩れてしまったら救われないとなれば阿弥陀如来は心の状態によって救いを決めることになる、そんなはずはない。
             (因果の道理、信心正因の否定)

7:00〜 
 ・瓜生師は凡夫の疑いがなくならないという親鸞聖人の根拠を示す
 ・無上上は真解脱 真解脱は如来なり
  真解脱にいたりてぞ 無愛無疑とはあらわるる (諸経讃)
 (これは疑心往生説をとなえる人がよく出す根拠で、ここの疑は例外で本願を疑う心ではなく煩悩の意味とされる。聖人のご著書では信を得れば疑心はなくなるとされるところの方が圧倒的に多い。聖人は信心をうたがいなき心、無疑心とされる)
   
   

49:00〜

・親鸞聖人は自分は信じられなということに苦しんでいた。
・信心についてのアプローチはたいてい二つ。一つは信心なんていらないんだ、信心なくても救われると思う。二つめは自分は信じていると思い込む。そのどちらもとらなかったのが親鸞聖人。
・自分の心を見ていって信じる心はないと気づいていった。 

以上の根拠や私が聞いてきた瓜生師の法話の論旨をまとめると以下の通りです。


・如来様は無分別のお方であるから、一切の差別をされない。信じる・疑うという人の心の状態で救いを分けるはずがない。
・人間の疑いはなくならない。信じられない自分、救われない自分を見続けていかれたのが親鸞聖人である。
・信心を得た、救われたという人は自分の心を見て正しいと思っているだけである。


大原性実勧学は『真宗異義異安心の研究』で疑心往生説の例をあげて「無条件の救いということは、罪ありながら、障りかかえながら救われることであるが、同時に疑いながらでも救われなくては絶対無条件とはいわれない。否、信ずることさえいらぬ救いであって始めて、絶対無条件の救いというべきである。凡夫である限り疑いはつづくものであって、浄土に往生してはじめて疑いが消滅することは宗祖も『和讃』に無上上は真解脱 真解脱は如来なり 真解脱にいたりてぞ 無愛無疑とはあらわるると述べておられることでも明らかである。」と。この説は瓜生師の説に酷似しているといえると思います。この説について大原勧学は「疑いながらの往生は真宗安心上絶対許さるべきではない。絶対他力であり、無条件の救いであるから、疑いながら往生を得るというがごときは、他力に対する正確な認識がないからである」と厳しく否定しておられます。

浄土真宗本願寺派において「疑心往生説」がなぜいけないとされるのかをご理解いただく前提として疑いと信じるということについて、一般的な意味と親鸞聖人が用いられる意味について説明しておきましょう。

 宗教といえば信じるということを頭に思いうかべる方が多いと思います。「信じる者は救われる」ということばもあります。多分にキリスト教などの一神教の影響が強いと思われます。目に見えない、人智のおよばないものについて信じると使いますね。この信の意味は不疑といって疑わないようにしているということなのです。信じるといっても疑っていると同義なのです。疑いがあるから信じようとしていると言えるかもしれません。瓜生師もこの不疑ということで信じるということを説明します。お浄土や如来をかちっと信じた、私は間違いないと思っても、それは自分の心を自分でながめて信じているだけだとおっしゃいます。しかし、それは疑っていることにほかならないのであって、信じている心の状態が続くということはないといいます。だから、瓜生師は信じるなんて無理だよねというのです。

 しかし親鸞聖人はこういう意味で本願を信じよといっているのではないのです。
阿弥陀如来の仰せを信じよといわれているのです。親鸞聖人は「仏願の生起本末を聞け」とおっしゃいます。仏願の生起本末とは南無阿弥陀仏のおいわれのことです。はじまりのない昔から真実の心や清浄な心がまったくなく迷い続けている衆生を、法蔵菩薩が見そなわして、この私が修行して南無阿弥陀仏という名号になって衆生の信心となり、必ず浄土に生まれさせて仏にしてみせるぞという本願を立て、その修行を成就して、今その南無阿弥陀仏がこの私に至り届いていることを聞いて疑いなく信ぜよと親鸞聖人はおっしゃるのです。この信じ方は無疑といわれます。例えば、小さいころにはぐれた母子がいるとしましょう。その母子がふたたび出会った時に、母が私の知らない過去のことまで私のことを知っていてくださって、「私がお前のお母さんですよ、こっちへきなさい」と言われて、疑う人がいるでしょうか。真実の信心とは瓜生師がいうような如来や浄土を私の側から信じていく心ではなく、如来の仰せにより私が虚仮であることと、本願念仏が真実であることが同時に知れることなのです。これを機法二種一具の深信といいます。自分のこと(機)とそれをつつむ如来のはたらき(法)が同時に知れるから疑いようがない、無疑となるのです。真実信心とは、また如来の仰せを聞いてそのまま受け入れることであるので、聞即信ともいいます。信じこむことではないことは明らかでしょう。こういった違いを説明せずに、不疑という意味の信の説明だけをもって衆生の疑いがなくなることはないというのは人々を誤解させることになります。

 本願寺派で疑心往生がなぜいけないのかは、上の引用のコメントにも書きましたが次の3点があげられます。
1、親鸞聖人のご著作は「勧信誡疑」でつらぬかれている。信心をうることを勧めて疑心をいましめておられ、真実信心の行者をほめたたえ、疑心自力の行者にとどまるなとよびかけておられる。論題の「信疑決判」「信疑得失」などを参照。
2、因果の道理を否定し、「信心正因」という浄土真宗の宗義の根幹を破壊してしまうから。親鸞聖人は往生成仏の因は信心一つと明確に述べられているので、疑いはなくならない、信心は得られないと主張すると、私たちは何によって往生成仏するのかわからなくなり、仏教と呼べなくなってしまう。
3、阿弥陀如来を全知全能の神のような存在と誤解しているからです。これは2の因果の道理の否定と裏表となります。

以上が理由ですが、瓜生師は「信心をえた、救われたという人は自分で自分の心を見て正しいと思っているだけ」といって信心をえたという人を貶めておられます。
これは明確に親鸞聖人の態度に相違するのではないでしょうか。
「他力の信心うるひとを うやまひおほきによろこべば すなはちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまふ」
根源は本願力ではありますが、信をよろこび念仏申す人、救われた喜びを語る人によって浄土真宗は弘まっていくと思います。疑う人を正しいとし、信をえたという人を間違いとするのは親鸞聖人と真逆の態度でしょう。本当に信をえているか、いただいた信を間違いなくうけとっているかの確かめはもちろん必要です。しかし、「救われた・信心をえた」という人を貶めるというのは浄土真宗の精神に反するといえるでしょう。信心や疑心についての解釈はさまざまあるにしても、信心はえられない、疑いはなくならないという教説は浄土真宗の根幹をゆるがし、信心への道を閉ざす教えとなるのではないでしょうか。
 
 また「信じるとか信じないという私の心の状態で無差別の如来が差別することはない」という教説はもっともらしく聞こえますが、浄土真宗の教えではないことはお分かりになられると思います。なぜなら、阿弥陀如来が本願を立てられたのは衆生に清浄の信楽、真実の信楽がまったくないからなのです。もともと信じる心のまったくないものに信心をあたえるために如来ははるかなる昔からはたらき続けているのです。なぜそのようなことをするのでしょうか。
 仏教とは因果の道理の教えです。たとえ衆生を一切差別されない如来であっても、因果の道理を無視して衆生の迷いをやぶることはできません。如来は一神教の神のごとき全知全能の存在ではないからです。衆生みずからに因果をあたえなければ、無分別の悟りへと導くことはできないのです。それは聖道門、浄土門もおなじでしょう。浄土門においては、如来が私の中にとびこんで悪業による分別を一心に受けつつ、どのような悪業もおそれるな、私がすべてを引き受けておるぞ、私が修めた修行の功徳は南無阿弥陀仏となって成就しておるぞと呼び続けてくださっているのではないでしょうか。それを自分が助かりたいという自力の心、計らいの心、本願を疑う心で、自分にとっていいものを取り込み、悪いものを排除しようとしている。無差別平等の智慧のはたらきを、自分の分別でさえぎっていることを親鸞聖人は疑心といわれるのです。差別をしているのは誰かということをよくよく考えることが大切だと思います。

 まだまだ説明は不十分ではありますが、本願寺派には安心論題に詳しい方がたくさんおられますから、分からないことは多くの先生方におたづねになられれば良いと思います。瓜生師はカルト問題、宗教問題について深い洞察をもっておられることは間違いありませんし、これからもご意見を傾聴していくことは大切なことでしょう。しかし、安心、真宗理解においては本願寺派の正統とはかなりかけ離れた理解であるということは、知っておいていただきたいと思います。瓜生師は「新しい領解文問題」についてもネットで語っておられましたが、本来の領解文の安心の肝要は、自他力廃立と一念帰命であり、自他力廃立とはすなわち信疑廃立といえますから、疑いの心はなくならないという説を主張する瓜生師に意見を聞くというのは、本願寺派の安心をさらなる混迷に陥れることになりかねません。私の主張したいことは瓜生師を正しい立場にたって批判せよということではなく、立場の違いをよくご理解した上で、ご意見を聞くようになさってくださいということです。本願寺派によく呼ばれていて、先生方と意見をよく交換されているからあんしんだということで、瓜生師の説がなんとなく公認されたかのようになり、本願寺派に入ってくることを懸念して、今回、問題提起をさせていただきました。

 ご意見、ご感想等あればSNS等で記名の上、送ってくださればさいわいです。
                                合掌

瓜生師の返答に対しての増補

「真実信心というものに、私は貫かれたときに俺は間違いなく疑いがなくなって浄土に生まれていくもんなんだってことが、わが身に知られていくんじゃなくて。私というものはどこどこまでも自力によって如来と取引をして救われていこうという私だということが知られるんじゃないですかね。」 瓜生師の動画より

瓜生さんの場合は真実信心によって自力の離れられない救われないすがたを信知されるとする。

本願寺派の二種深信は内藤和上の論文等によれば信機とは自力無効、罪悪深重、煩悩具足の信知、信法とは他力全託、本願力の信知といわれる。機の深信からおこる悲嘆とは悲しむべきことを信知したうえで悲しめない煩悩を悲歎することといえる。信法は罪悪深重のままで救われている喜びであり、救われていることを信知した上で喜ぶべきことを喜べない煩悩の悲歎ともつながるといえるだろう。

また瓜生さんは動画を見てる限り一念の今の名号の聞が信であり、時間的幅をもたないという理解のようである。幅をもって自分に取り込むと疑いになると考えておられるようだ。しかし、信の一念は「時剋の極促」といわれ、『浄土文類聚鈔』には「次節の延促」とあるので、延びるという相続の概念を持っている。「信心定まる」「決定」などには時間の概念があるといっていいだろう。

瓜生さんの場合は凡心はすべからく疑いであるから、そこに信を取り込むと時間、空間の妄念と堕し、無分別の信心を所有し差別するのが疑城胎宮であるという独特の理解を生じていると考えられる。その理解から信心を得た、救われたという人をにぎっている人と非難し、そういった人が正しさを握りしめ人を批判してくるという特異な理解を生じている。

また凡心すべて疑愛となるから本願を疑う心は決してなくならないという理解になるのであろう。

本願名号の信心は無分別智が分別の中ではたらく報身仏であるから有始無終の時間を持ち、煩悩に汚されずに衆生に信心の智慧をもって信知と不可思議を得しめるものである。

悲嘆と自力疑心は混同すべからざるものであり、親鸞聖人に自力疑心が残っていることを嘆かれる箇所はない。悲歎述懐讃にしても嘆異抄第九条にしてもあきらかに悲歎であって往生にたいする疑いはない。勧信戒疑のご文も枚挙に暇がない。私のこの文章を教学のある方が読めば、師の間違いは理解されるであろう。このことをふまえて教化を受けるべきかいなか判断していただきたい。

 

 
  
 

 


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