虚仮なる私になぜ真実が分かるのかについての断章

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」歎異抄

虚仮不実なものの中に私も入っているのに、なぜ念仏のみぞまことにておはしますと言えるのか、誰がいっているのかという問題が究極的な真宗の論点だと改めて思った。
 私が虚仮であると言い切れるのは、真実である念仏にであった時である。真実の中に虚仮なる私も含まれている。あなたは本当に自分で虚仮と言い切れますか。救いを問題にしていませんか。
 最初は自分の終末のことなど問題にしない、何とかなると思っている。バカなことのように思えるが、自分が死ぬとは、苦しみに沈むとは信じていない。死なないし、幸せになると信じている。
 それが、如来さまに指さされて、問題になってくる。蓮如上人が「どんな人も早く後生の一大事をこころにかけて」というところである。
 それで、どんな解決があるのか、ことばでは私が虚仮で念仏がまことと聞くがすっきりしない。その時に問題はことばではなく、私の思いの方だと目がつく。救われたい、何かをとりいれて真実になりたい、その思いこそ私だと。真実をとりこみ闇をはらしたい、それしかない。
 すでに聞いていたお前は闇だ、どうにもならないぞということばが、私の思いを超えてつらぬく。その時にはじめて虚仮と真実があらわれる。
 お前は虚仮であるぞ、念仏は真実であるぞとは仏のことばであった。それがそのまま私を貫いたとき、この私が虚仮であり、念仏が真実であると叫ぶのである。

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