夢とシンクロニシティ

今日の朝、かなりカラフルな夢を見た。吉本芸人で芸達者で有名なぐっさん(山口智充)が80年代後半に桑田佳祐が率いていたKUWATA BANDの曲を街中(大阪?河内地方かな)でノリノリで歌いまくるというものだった。ぐっさんは本人よりうまいんじゃないかと思う曲も多いぐらいのすごい歌唱力である。私の中で少年時代に聞いていた桑田サウンドのリズムが踊りだした。そして、最後にぐっさんがなぜかほこらの中にある蘇我馬子と向かいあうシーンで終わった。蘇我馬子はかなりのイケメンで優雅に足を組んだスタイルの像だった。そこで目が覚めた。
 KUWATA BANDの曲、BAN BAN BAN、ONE DAY、スキップ・ビートなどは中高生の時によく聞いていたけれど、Ituneには入れていなかったので、飢えてたのかと思った。
しかし、なぜぐっさん。ぐっさんはけっこう好きな芸人で、Youtubeなどではかなりヘビーに聞いてはいけれど。その時、驚きのニュースがスマホに入ってきた。「にじいろジーン終了 12年で幕」。ぐっさんがMCをつとめる長寿番組が終了!それも今日の朝で。
 偶然の一致だった。私の人生の中で時々こういうことがおこる。ユングという心理学者はこういう現象をシンクロニシティ(共時性)とよんで、私たちの共通する無意識、集合的無意識のあらわれと説明したりしたのだった。だから、どうこうということはないが私にとっては意味深い出来事となった。
 そして最後にあらわれた蘇我馬子、しかも足組んでダンディなすがただった彼は一体。
私は古代史マニアでもないし、それほど蘇我馬子について考えたことはない。しかし、彼は日本仏教においては重要な役割を果たした人物だった。和国の教主、日本のお釈迦様といわれた聖徳太子と同時代人である。
  当時日本に伝来してきたばかりの仏教。この目新しい文化をめぐって有力な氏族が対立していた。日本古来の神々を守るべきとする物部氏と大陸のすぐれた文化である仏教を取り入れるべきであるとする蘇我氏である。天皇は蘇我氏にためしに仏像をおがんでみるようにいった。そして蘇我氏は日本最初の寺を作り、そこに仏像を安置した。
その時ちょうど疫病がはやり、物部氏はそんな異国の神を拝んだからだと蘇我氏を批判しました。熱病の原因になったから「ほとおりけ(熱気)」とよびそれが仏(ブツ)をほとけとよぶ語源となったという説もある。とにかく蘇我氏の寺を焼き払った。そして仏像を大阪の堀江に投げ捨てたそうである。
 その後も主導権争いは続くが、物部守屋氏は聖徳太子と組んだ蘇我馬子によって滅ぼされてしまうのは歴史のしるす通りで、その後、仏教は日本に根をおろしていくのであるが、仏教の外側ではなく、その本質を理解したのは聖徳太子である。蘇我氏は文明としての外見にひかれたにすぎない。聖徳太子の仏教理解の深さは十七条憲法や、太子を偲んで作られた天寿国繍帳に「世間虚仮、唯物是真」ということばからも分かる。その聖徳太子は山にこもって修行する出家主義の仏教ではなく、街中に出て庶民と苦楽をともにする在家主義の仏教をとられたといわれる。歴史的証拠はなくても、後の人々がそれを聖徳太子の意志として受け取っていったのはたしかであろう。史実であるか、本当に実在したのかが問題になるのは近代以降の話であって、当時の人は神話をふくめた物語の中に生きていたのである。神仏のおられる冥界と人間のすむ顕界との境目は今よりずっと近かった。当時の人は神仏をもっと身近に感じていたはずである。聖徳太子は救世観音として崇拝されていた。その冥界と顕界をつなぐ大切なものとして考えられていたのが夢のおつげ、夢告である。
 この聖徳太子と夢告でつながったのが、浄土真宗の開祖の親鸞聖人である。比叡山の山で出家して修行をつづけていたが、生死を超える道を見出すことができず、当時、巷にひろまっていた法然聖人の説く、念仏一行の教え、南無阿弥陀仏と称えることによって阿弥陀如来の極楽浄土へうまれて、生死を超える仏となることができるという教えにひかれていたけれども、ふんぎりがつかず苦悩していた。そこでしるしを求めて通われたのが京都の街中にあった六角堂だった。そこで95日のあかつきに聖徳太子(救世観音)から無告をうけられるのである。ここで、在家主義のこころざしを持っていた聖徳太子と、称名によって出家、在家、善人、悪人みな平等に救われる教えであり、いわば在家主義にすすもうとされていた親鸞聖人のこころざしが一致する。
 親鸞聖人が生涯、聖徳太子を尊崇されたことは聖徳太子を讃嘆する和讃の存在や、今も浄土真宗の寺院にいけば聖徳太子像がかがげられていることからもわかる。そして、その後、親鸞聖人は法然聖人のもとで信心を得られ、法然教団の俊英として活躍されるわけであるが、念仏の勢いを恐れた朝廷や旧仏教によって法然聖人ともども流罪にされてしまう。そこから親鸞聖人は新潟にいき、そしてその後、関東で布教されるわけであるが、その時とても重要なのが、善光寺なのである。関東に行く途中親鸞聖人は善光寺に立ち寄っている。善光寺聖として活動されたのではないかという説もあるぐらいである。今も、松をもった親鸞聖人の像が善光寺の境内にある。
 そして、この善光寺の本尊の阿弥陀如来はあの物部氏が難波の堀江に投げ捨てたといわれる仏像なのである。本田善光が堀江の池をとおりがかった時に、池の底にあった阿弥陀如来像が浮かびあがり、私を信濃に連れていけといったという。そして、その阿弥陀如来像を安置したのが善光寺なのである。当時、関東の阿弥陀信仰は善光寺が中心だった。その影響下で親鸞聖人は浄土真宗のご法義をひろめていかれるのである。また聖徳太子信仰の太子堂などとも親鸞聖人は関わりが深い。
 一度は日本に入って聖徳太子によってつかまれた仏教の真髄が、ずっと水脈のように底を流れていたのが、親鸞聖人によって顕界にあらわれてきたのではないか。そのきっかけに重要な役割を果たしたのが夢告であった。
 聖徳太子は子どものころ父親に桃と松とどちらがすきかと聞かれて、松とこたえたという。桃は美しいがすぐ散ってしまう、松は四季を通して変わらず緑であるからだと。この松は無常の世界でも変わらない真実である仏法を象徴しているという。親鸞聖人が握っている松は聖徳太子から真実の仏法を受け取ったぞというしるしではないか。浄土真宗の中でも古い宗派である高田派では今も松が本堂に供えられている。善光寺でも一本松が本堂に供えられているが、その松は「親鸞松」と言われるという。
 夢は古来、このようにとても重大な啓示としてとらえられていた。私自身も朝あのような夢を見て、今までなかなか勇気のでなかったネット配信をすることができた。歌いまくるぐっさんとダンディな蘇我馬子は、もっと楽しくエンタメも利用して仏法を広めよというお告げではなかったかと、私は味わっている。
 
 *善光寺縁起も面白いのでぜひみてほしい。https://www.zenkoji.jp/about/engi/

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