信心の成立についての矛盾

信心成立には衆生の三業は関わらないという宗学のテーゼと、信心とは仏願の生起本末・名号を聞き開くことである(聞くというからには意味認識が関係してしている)の矛盾が多くの難問を発生させている。一念覚不における足利義山の心相覚知説(真宗の信心は心相があり無念夢想ではない、聞いて解了するのであり、寝ている時にはおきないのであるから覚知なしとはいえない)と利井鮮妙の信心非意業説との論争もそうである。三業派を批判することに活躍した大谷派の宝厳も信心意業説を説いて排斥された。こうなれば、信心を意業といえばアウトとなり僧侶として生きられないのであるから、議論がおかしくなるのもやむをえない。

 信心は非意業か意業かではなく、これを問う問題の枠組みがおかしいと言わざるをえない。これでは、聞き開くという獲信の契機が解明されるはずがない。聞くというからには衆生の分別が関わっている(仏願の生起本末も名号も言説であり、虚妄分別のある衆生に知らしめようと因果をもって時間的に表現されたはたらきである)。この分別をもって分別を超えしめるということが信の一念ではないか。そして受けての衆生の三業も、如来の願力によって人間に生まれさせられ、教育され、釈迦・祖師の教法によって法の認識を得ているから、私のものと言えるものは一つもない。

 信の成立に三業が関与しないということを強調すると、本願を聞くことも念仏することもなく、私とは無関係のところで救済が成立し、救われているということだけが強調され、迷いの因、本願の因に心がむくことがない。これで信心といえるのだろうか。
 真宗において信心を問うことは信益同時、すなわち救済の成立の可否でそのものであるので、口に出すとすぐに傲慢だ、条件をつけるのかという声があがるが、無条件の救いと言っておけばいいというものではないはずである。人の心配をする前に、私が教説に向き合わねばならない。

 往生は一人しのぎ、究極的に本当に信心があるかどうかは仏のみぞ知ることである。信仰の自由で守られ、世間の損得に覆われているこの世では、自分から問うていかなければ、いかにすぐれた僧侶・同行といえども私の後生を問うて導くことはむずかしい。

 拙文ではあるが真宗や信心について、またそれをめぐる問題について関心をもってもらえるとありがたい。疑問等あればメッセージ下さい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?