本願寺の正統性と相承
次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候。
『領解文』蓮如
領解文の師徳の段
本願寺の正統性の根拠は親鸞聖人から次第相承の歴代のご門主によって法脈が受け継がれてきたことによっている。
相承とは浄土宗大辞典によると
相承には、師弟の間で法門や衣鉢あるいは血脈譜を直接に授受する(印可を得る)場合と、夢告や経文によって法義を伝承する場合とがある。前者を直接相承・面受相承・知識相承・次第相承・口訣相承といい、後者を依憑相承・経巻相承・超越相承という。
とある。
相承とは内部よりも外部の人や入門者に対して、法の正統性を示すものだといえよう。
それがなければ、宗派の伝承に疑義が生じる。法然上人は善導大師との国と時代を超えた経巻相承であり、大師の「観経疏」という書物によって回心せられたのであった。しかし、中国に行って面受相承を受けた各宗派の祖師と違い、面受相承ではないことを貞慶に批難されている。面受でないと弱いのである。それで善導大師との夢中対面がその補強となった。現代とは違って夢告は正統性の根拠となったのである。
親鸞聖人は師法然上人と面受相承であったし、選択集の授与がそのことの重大なあかしであったことは、教行信証の化身土の巻を読めば明らかであろう。「しかるに既に製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。」とまで述べておられるのである。このことが、親鸞聖人のご教化の正統性に深大な影響を与えていたことは想像にかたくない。
このような相承の正統性の重要性をよく理解しておられたので、覚如上人は親鸞-如信(善鸞の子)-覚如の三代伝持の血脈を主張されたのである。(血脈とは本来は法の伝承のことであるが本願寺の場合は血統と重なっている)この血脈が相承されて現代の門主にまで至る。次第相承というからには法門がなければならぬ。その法門が信心正因・称名報恩の常教であり、一念帰命であろう。一念帰命という法門の表現がもっとも熟したのが「後生たすけたまえと弥陀をたのむ」という蓮如上人であった。御一代記聞書には
「聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候ふ。しかれば御再興の上人にてましますものなり。」とある。
蓮如上人が確立したこの一念帰命の肝要をあらわしたのが領解文であり、江戸期の門主はこの法門を守り通してきたと言っていい。三業惑乱のご裁断にもそのことが読みとれる。
以上のことから次第相承の善知識とは歴代門主といっていい。この法脈を代々守ってきたことが、本願寺の権威の根拠であり、それを守るためにご門主には安心を裁断する権利があるわけだ。現代にはそんなことは合わぬといっても、宗制・宗法をみれば建て付けとしてそうなっていることは明らかである。
得度や帰敬式を行う権限が門主に集中しているのもそのためであろう。宗法には得度は「師弟同信の約を結ぶ儀式」とある。形式的ではあるが本願寺派のすべての僧侶の師は門主なのである。代替わりをすれば、そのまま新門主と師弟の約をかわしたことになるであろう。正統性が門主によって継承されていると他宗派から見られていることは血脈譜等を見れば明らかである。
なので弟子たる一般僧侶には師の門主を諌めることしかできないのであるが、門主の権限の淵源は法門を次第相承しているところにある。宗制・宗法には明文化されていないが、門主には一念帰命の法門を守るという責務があるであろう。それを放棄したと見られた場合、他宗派からは仏教とは見られがたくなり、法脈の正統性・本願寺の伝統が危機に瀕し、宗門のまじめな僧侶が宗祖・歴代の教えと現門主の教えに引き裂かれるようなことがおこる。僧侶が和合僧を守り、安心して伝道ができるように、くれぐれも熟慮を求めたい。
南無阿弥陀仏
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