「無宗教」の日本人とお葬式

愛知県の企業が「お坊さんのいないお葬式」を提案し、サービス開始に向けてテレビ、新聞等で広告をうっています。テレビCMでは初老の男性が「なぜ無宗教なのにお坊さんをよぶのだろう」と言っています。
 少し話題になりそうなので、この際、一般家庭から僧侶となって、葬儀に関わるようになり感じたこと、考えたことを言わせていただきます。
 
 まず日本人は無宗教であるということについて。特定の宗派等には帰属意識のない方がおられて、それで自分は無宗教だと自覚されておられる方が多いのだろうと思いますが、ほとんどの方は無宗教ではない。
 
なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
と西行が詠んだように、日本人ははっきりとはしてなくても自然の中に仏や神々や霊を感じる感性を濃厚に持っています。お骨を大切にするのも、そういった感覚があるからだと思います。幽霊や霊障などを気にされる方も多い。不動産の事故物件などが、そのことを証明しています。
 宗教的感性は非常に豊かだけど、それを自覚し意識化し論理化している人は非常に少ない。こういった状態を無宗教と考え、人為的な非宗教的な儀式を行うことは非常に危険です。
 日本人の敏感な霊性、感性が不安になる葬送の場面で、その不安にアクセスされると容易にダマされてしまう可能性があります。昔から、病人や死人がでると変な宗教者がよってくると言われています。感性のみあって、明確な世界観がないので、おかしな宗教観であっても受け入れてしまう可能性があるのです。
 それをある程度防ぎ、一定の安定した宗教的世界観を提示して、場をつかさどって守ってきたのが、既成宗教の宗教者なのです。先人たちが、必ずしもその宗派の信仰に篤くなくても、既成宗教の葬儀を継続してきたということには先人の知恵があるようにおもいます。
 
 しかも宗派によって異なることはありますが、日本の既成宗教の役割は先祖や故人を大切に祀り、感謝したり思い出したりする場と機会を与えることでしょう。
 
 子どもに迷惑をかけたくないから、既成宗教とのつながりを断つ方が増えてきましたが、子どものためを思うならそれは逆効果です。先祖や両親のことを弔い、感謝する機会のない人は、幸せになる感性を減らします。また、なにかの不幸の時には霊的な防御がきかないので、おかしな宗教者やスピリチュアル系にダマされてしまう可能性が増加します。
 
 私は家の宗教を否定して自分の考えを持つことは大切だと思います。私自身がそのようにしてきましたから。しかし、人生や死についてしっかりと考えた上で踏み出さないと危険なことが多いです。そういった危険を減らし、自分の考えを持つための踏み台にするためにも既成宗教は役に立ちます。
 
 もう一つ感じることは、死後の葬送や埋葬などは宗教的領域として行政が立ち入れないことです。医療や福祉のように最低限を補完するサービスがない。そこは、今のところ宗教者の良心にゆだねられています。悪い宗教者もいる、お金を節約したいというのは分かりますが、宗教を排除して出てくるのは資本主義の論理です。
 お葬儀代を節約すれば最後はどうなるでしょう。司会をカットすると僧侶が行うことになります。火葬式などでケアがなくてとまどう人をたくさん見ました。その後の相談や説明などは私が行いました。費用が少ないと、葬儀社は最低限のことしかしません。時には、ひどい扱いも見受けられます。しかし、それは資本主義なので仕方がありません。そこで僧侶が金額には関係なく、故人をしっかりと送り出すという精神を維持している面があるのです。本当にお困りであれば、金額に関わらず丁重に葬儀をして下さる宗教者は必ずいるはずです。
 日本の文化、日本の精神を守るというなら、どんな人であっても、経済的にはめぐまれなくても、1人の大切な人間として丁重に弔う。先祖として大切にする。これが文化の基盤ではないでしょうか。こういったものが急速に失われている気がします。それをみんなで維持していくという意識も大切な気がします。

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