真宗者の社会的実践

 本願寺派の安居(年に一度の僧侶の教学研鑽会)の特別論題が真宗者の社会的実践であった際に私の考えをまとめたものです。昨今のカルト問題などを考える上で参考になればと少し改訂しつつ、ここに発表いたします。


 
本文
安居の感想

  今日の特別論題、テーマは念仏者の社会的実践、いろんな議論がきけてとてもよかったです。

 その中に、念仏者が無条件におこすべき具体的行動について問われていましたので自分なりに考えてみました。

 それで思いついたことは、相手の意思を尊重し、自分の考えをを押しつけない。思想の自由、信教の自由を守ることかなと思いました。無理矢理に自分の考えを押しつけるのは、自力であり、やってはいけないことだと思います。念仏は自然に起こってくるものでないといけない。こうでないといけないという計らいを離れるものなのです。

 出拠は
「歎異抄」第二条
 このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり。

「歎異抄」第六条
 親鸞は弟子一人ももたず候。…師の恩も知るべきなり。

「口伝鈔」6 弟子・同行をあらそひ、本尊・聖教を奪ひとること、しかるべからざるよしの事。

「ご消息」17
  余のひとびとを縁として、念仏をひろめんとはからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからず候。

 他人に自分の思想、信仰を押しつけないというと消極的に見えるかもしれませんが、相手の意思を尊重するというきわめて積極的な態度です。思想、信仰の押しつけには、厳しく立ち向かっていかなければなりません。
 
 思想の自由・信仰の自由がなければ自力を捨てて他力に帰すこともありえませんし、自己の信心からの発露した思いに従った社会的実践を行なうこともできません。
 
 来たる者拒まず、去る者追わず、如来のはからひによって私の眼前に来ている人をできる限り尊重すること、そのことによって、そこに自然のはたらき、本願のもよおしが働いてくる気がします。

               南無阿弥陀仏

 社会学者の方から、自力の人がなぜ自分の考えを押しつけ、他力の人はなぜ自分の考えを押しつけないといえるのか、戦時中には他力の人も政府に協力し、自分の考えを押しつけたのではないかという質問に対しての返答。

 

なるべく論理的に説明しますと

他力の信心は自力によっては得ることができない

 自力とは真宗の重要な概念でこれだけが定義ではないですが「自分の計らいで因と果を決めて思い通りにしようとすること」となります。
 
 この自力は他力の信を得てない人にもありますが、他力の信を得しめようとする人にもあります。

 未信の人の自力は他力を受け入れていない状態、疑いにおおわれた状態ですが、獲信者の自力は人のことを決めつけ、自分の力で人に信を与えようとする心となります。
 他力の信を得ていても、信心の根源が本願にあることを憶念していないと、信心を我が物顔にし、僧侶、獲信者だからえらいという慢心を生じます。
 そうすると、すべて如来のはからいによって聞法し獲信することを忘れ、弟子をコントロールしようとしたり、他宗派、他宗教の人を否定したり、見下したりするようになります。
 そのことを深く戒めて、仏法を我が物顔にしないこと、他者の意志を尊重すべきことを示しておられるのが上にあげた親鸞の文になります。
 ですから、親鸞に倣えば、思想、信仰の自由を尊重する態度は真宗者のあるべき態度だろうと思うわけです。
 信心に関しては自力を捨て他力に帰さなければいけないので、上の論理は通りやすいですが、生活上のことなどは凡夫は多かれ少なかれ自分の思い通りにしようとします。これは煩悩であり、広い意味での権力欲でしょう。
 権力と信仰というのは仏教史の大きなテーマで、真宗史では親鸞以降は真諦・俗諦をわけて、内心の信仰と外側の習俗を分けて、社会、世間に調和し、融和する方策を真宗教団はとったわけです。
 しかし、それでは権力が強大になったときに信仰の自由を奪われ、戦争協力にいたってしまうということを歴史が証明しています。
 ですので、思想・信仰の自由は守らなければ、真宗の生命線である信心獲得も危うくなるのです。
 そのためには他者の思想・信仰を尊重し、共存する社会でなければなりません。そして、多くの人が自分の思想・信仰に従って行動できる社会でなければならないと考えます。

 補足 真宗教義のオーソドクスに従うと信心を獲得すれば自力はなくなるということになっています。なので信後は自力的な惑いとしておきます。
 信心を得ていても、そこから流れでる報恩の思いがある人と、滞っている人がいるということになります。
 みなから敬われる宗教者の立場にいますと勘違いしやすいので、他力の信心を得ていても権威的で人に押しつける人は多数いると思われます。 
 ですので、親鸞の対人態度を見直すことは非常に意味があることだと思います。

最近NETFLIXで「アンオーソドクス」というニューヨークで暮らす戒律の厳しい超正統派のユダヤ教徒と結婚した女性が、髪を切られたり、子づくりを強制され、子づくりがうまくいかず、夫から離婚を切り出されことで、コミュニティを飛び出し、先にコミュニティを出ていた母親の導きによってドイツに出て自由に生きる決心をするというドラマを見ました。人権と宗教の対立を描いていますが、どちらかというとリベラルよりでした。
 私は、社会としては抑圧を嫌がって宗教コミュニティを出た人が自由に生きていけるようにサポートするべきだと思いましたが、宗教的信念によって戒律を守る宗教団体・民族も尊重すべきだとも思いました。
 外国人が多くなるとこういう問題が多くなってくると思います。
 真宗は戒律はありませんが、それは何をしてもいいということではなく、信心の上から善悪を考えて、自主的に法にかなう生き方を創造すべきだということかなと思いました。
 真宗僧侶には、信心には条件はないということと信心からおこる報恩の生活の混同が多いような気がします。妙好人を法話で扱うについてもああいう人にならなければいけないと思わせてはいけないから気をつけなければならないとよく聞きます。

  また輪廻思想における聖典の中の差別的表現について、輪廻思想の負の遺産だという声があります。如来の大悲の中にある輪廻を思うことによって、すべての生き物が平等である生命観、あいての身になって考える慈悲観なども起こってくると個人的には思いますがさらに深く検討しなければなりません。
                    合掌
 

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