「自分が力尽きるその瞬間まで新しい知識を頭に入れたい」桁外れた知識欲で、ゲーム開発の世界に飛び込む。ファミコンやゲームボーイ...誰もが知っているゲームを開発してきた男が見るエンジニアの未来
こんにちは、システムアイ広報担当の白井雪乃です!
今回もシステムアイで活躍する社員へのインタビューをお届けしたいと思います。
今回は、ゲーム開発の第一線で活躍されたあと、Web アプリ開発や i モードメニューに入るWeb アプリなどを開発された逸材のエンジニア。
現在もこれまでの知識を生かしWeb開発を行っている、川原英明(かわはらひであき)さんにお話を伺いました。
今回のインタビューを通して、川原さんのこれまでの知識を生かした開発を行なっていきたいという想いと、新しい知識を得続けたいという途絶えることのない探究心を持ち続けている姿は、長年、第一線で活躍して来られたエンジニアとしての誇りを感じました。
小学2年生でトキめいた21世紀の未来
ゲーム開発に目覚めたのは、思い返すと小学2年生の頃だったと思います。
私は、元々勉強は好きではなくて苦手でした。
それでも、当時、発行していた学研科学という小学生向けの雑誌は楽しみに読んでいたんです。
結果的に、完全には、実際に子供の頃に見ていた未来にはならなかったですけど(笑)
親が電気工事業を営んでいたんですが、小3のとき、親の仕事に付いて行ったことがありました。
その時、電気工事の部品を買いに行くために、偶然立ち寄った大きい電気屋で初めてパソコンの存在を知りました。
今ではありえないことなんですが、その当時は、電気屋さんにあるパソコンを自由に触ることができたんです。
初めてパソコンを触った時は、それはもう、大はしゃぎでしたね(笑)
自分が書いたプログラムで動くゲーム開発に魅せられて
当時の電気屋さんでは、パソコンを使って、ゲームをすることができたんです。
まだ、ファミコンゲームもない時代で、単純に画面の中でゲームが動いているという事実にびっくりしたことを覚えています。
今思えば、私が初めてパソコンを触った80年代後半というのは、スティーブ・ジョブズがアップルを立ち上げて、1号機2号機を作って世に出した黎明期でした。
電気屋さんに行くたびにパソコンを見よう見まねで触っていたら、同じようにパソコンで遊んでた人たちが、簡単なコンピューター言語を教えてくれるようになったんですよ。
電気屋のパソコンコーナーには、マイコンベーシックマガジンという本が置いてあったんですが、その本には、ゲームなどが動くようになるプログラムリストが書いてありました。
教えてもらったコードや本に書いてあるコードを見よう見まねでコンピューターに打ち込んでみたら、本当にゲームが動いて、自分が書いたプログラムで動いた!と、すごく感動したんです。
それを機に、ゲーム開発にのめり込むようになりました。
電気屋さんのパソコンでゲーム開発した中学時代
小学3年生で、電気屋さんに入り浸ってパソコンを触るようになってから、本を見るだけでは飽き足らず、自分でベーシックマガジンを見ながら、完全に独学でプログラムを組むようになっていきました。
初期の頃はフィールド系と言われるアクションゲームやシューティングゲームのプログラムを見よう見まねで組んでいましたね。
ボンバーマンみたいなゲームを独学で学んだプログラムを組み合わせて作ったような遠い記憶があります(笑)
ただ、当時の私が作るゲームは、所謂「ゲーム」というより、その当時に流行っていた一画面の横80桁、縦25行の画面内に収まる一画面プログラムばかりを作っていましたね。
今のプログラミングで言うコードゴルフみたいなものです。
小学生の時は、ゲームのプログラミングを組むことに対して自分で楽しむ程度でハマっていたんですが、中学生くらいで自分のプログラムが、電気屋さんに置いてあったマイコンベーシックマガジンに投稿できるんだということに気付いたんです。
マイコンベーシックマガジンに投稿して掲載されるというのは、当時の私からすると「自分が書いたコードが本に掲載されるのはすげー!かっこいい!」と思っていたので(笑)
今では本当にありえないことなんですが、電気屋のパソコンでコードを組んで、それをカセットテープに保存して投稿してました(笑)
それくらい、当時は、ゲームのプログラムを組むことに魅力を感じてたんですよね。
時代と共に変わったゲーム開発へのベクトルと将来構想
マイコンベーシックマガジンへの掲載料を貯めて、パソコンを買ったとなると、更に開発意欲が湧いてどんどん投稿したくなるというのが普通だと思います。
確かに「もっとゲームのプログラミングを開発するぞ!」と頑張っていたんですが、フロッピー時代がやってきた高校生になった頃くらいから、ゲームコードを開発するというベクトルが若干変わっていきました。
雑誌に投稿される量が膨大になってしまって、掲載される機会が減って載らなくなってしまったんです。
そんな時代になってからは、同じようにゲームプログラミングを開発していた皆のベクトルが雑誌に掲載すると言うことではなくなってしまったんです。
高校生になってからは、アルバイトをして貯めたお金で新しいパソコンを買うしかなくなってしまって。それがきっかけで、本業にしたいと考えるようになりました。
大学には行かず、高校を卒業したら、今までやってきた独学で学んだことで仕事をやっていこうと思っていたんですが、高卒で働くことに親から反対され、専門学校に行きました。
専門学校時代には、既にゲーム会社の何社かのドアを叩いて、テストプレイなどをやっていたりと、自分でゲーム開発をしていたのですが、学校に行く意味ってなんだろうとはならなかったですね。
確かに、我流でもゲームプログラムを組むことは出来るんですが、人との協調性がないようなプログラムになっていることに専門学校に行ったことで気付けたんです。
今となっては感じるのは、我流で人との協調性がないようなプログラムを組むことで私の知識がストップしていたのですが、専門学校に行ったことで我流で学んだ良くない部分が矯正されたなと思っています。
あと、専門学校では、C言語の基礎からしっかりと学ぶことが出来たのも、とても勉強になりました。
色んな基礎的な知識も増やせたことで、本格的にゲームを作った1~2本というのも、専門学校のときから手掛けることが出来ました。
インターネットが一般化し始め、舵を切るようにweb開発の世界へ
専門学校を卒業してからも変わらず、ファミコンやゲームボーイ、プレイステーションなどのゲームからPCエンジンのゲームまで多種多様のゲーム開発をしたり、Webアプリの開発もしていました。
そこからネットが急速に発達し始めたこともあり、本格的にWeb開発の世界に飛び込み、30代前半の頃にお金が余ってたので起業しました(笑)
語弊を生まないように言っておきますが、お金が余ってたから起業したというのは、私の起業の考え方のひとつとしてあったからです(笑)
あと、その時って、ちょうど今となっては懐かしい「 i モード」が出始めたときだった。
2000年代だった当時、 i モードメニューに入るWebアプリの開発というのは、本当にすごくお金が動く仕事でしたから(笑)
2001年くらいまでは、i モードメニューに開発したWebアプリが入ってしまえば、それだけで月500万を産むとニュースでも噂されてたくらい、 i モードメニューに入るということはすごいことでした。
しかも、その当時、ウェブを開発できるという人がほぼいなかったので、チャンスだと思いました。起業したときも仕事を持ってくる人というのは、元々はダイヤルQ2のIP (Information Provider) なんですよ。
Q2ってもう死語ですけどね(笑)当然、Q2のIPは、ウェブ開発に関する知識はなく、私が作り方を教えながら作ってましたね。懐かしいです。
実際に、 i モードメニューに入るゲレンデ、積雪情報のWebアプリを開発しました。休みになると皆スキーに行ってるんじゃないかというくらい、本当にスキーが流行っていた時代だったので、開発したゲレンデの積雪情報には多くのアクセスがありました。
ここだけの話ですが、着メロも開発はめちゃくちゃ大変で、それはもう地獄のように大変でしたね(笑)
今だから言えますけど、着メロはやればやるほど赤字ってくらい厳しい世界だったので、すぐに辞めて、テキスト情報をとにかく配信するというアプリの開発に徹していました。
経験したことがないものを開発するという魅力
その後、時代の流れとともに、経営がうまく行かなくなってしまい、心機一転して派遣として、メガIT企業でWeb開発をして働きました。
主にネットショップでのメールマガジンのシステムを開発していて、メルマガシステムに関してはメルマガに関するデファクトスタンダード的な開発も含めて、初期バージョンから開発に携わっていました。
あの時代は、メガIT企業が一番伸びていく時代で、働いていてもとにかく開発をして成果を出せって感じだったので、派遣と言えども、社員と変わらずに馬車馬のように働きました。
自分の意見を言って、こんなふうにWebアプリを開発したいと言うと、本当に作らせてくれたんです。
あの当時としては、珍しいくらい派遣にも裁量がありました。
所謂、当時の派遣社員のイメージにあった「言われたことをやる」というのは全くなくて自由に仕事できたんです。
私はこれまでに経験したことがない知識を勉強し続けたいという思いがあるんです。
新しいシステムを開発することにエンジニアとしての魅力を感じているので、メガIT企業で働いた後に、スタートアップの企業を何社か経由してシステムアイに入社しました。
私は、本当に知識欲が強い方だと思っています。
ただ、それ以上にうちの社長の知識欲は本当に半端なくて、そんなことまで知ってるの?というところまで、何でも知ってるんですよ(笑)そこが面白いなと思ったんです。
私が新しい知識を絶やさずに入れる理由
私は、システムエンジニアとして、色々な知識がないということに疑問を持つことがあるんですね。
それくらい、時代を見越していくエンジニアという仕事は、新しい知識を入れ続けないと、エンジニアとしての魅力がなくなっちゃうんじゃないかなと思うんです。
だから、私も年間数えられないくらい死ぬほど本を読んでいます。常に新しい知識をとにかく頭に入れたいんですよね。
本はエンジニアの技術に限らず読んでいて思うのは、やっぱり、知識は入れ続けた方が面白いというところです。
ディープなエンジニアの技術が書かれた本は時間をかけてじっくり読むのですが、例えば、経営の本って自己啓発だらけで読むに値しないものばかりだなと、正直、私は思ってて(笑)
だから、経営の本はとりあえず10分くらいで読んで、あとは流し読み。そんなのも入れたら、年間にありえないくらいの本を読んでいる自負があります。
なので、基本的には何でもやりたいというスタンスです。且つ、やったことがない言語にとにかく挑戦してみたいと思っています。
自分の趣味としても、開発に関わる技術書の執筆をやっています。
そんな私にとっては、志としていろんなものを開発していきたいと言う向上心がある社員が多いシステムアイで仕事が出来ているのはありがたい環境だなと思っています。
おわりに
ここまで読んでいただきありがとうございました。いかがでしたか?
小学生の時にゲームを開発するという魅力に取り憑かれて、ゲーム開発者の第一人者となった川原さん。
システムアイという会社には、今もなお、当時と同じ気持ちで知識を絶やさずインプットし続けて開発を続けている川原さんのような社員がたくさんいます。
「自分の好きなこと」をしていると、人はこんなにも意欲的になれる。だからこそ、システムアイは社員の好きなこと、やりたいことを尊重したいと考えています。
今後も、システムアイ社員のこれまでにフォーカスを当てたインタビュー記事を更新していきます。システムアイのプログラミング愛溢れる社員のお話をぜひ楽しみにしていてください。