僕は選ばれた戦士だった。

「note」という場所には、たくさんの文字好き、ことば好きの人がいると思います。

読むのが好き。書くのが好き。両方とも好き。

僕も、そのひとりです。

その、ことば好きのひとりとして、過去に体験した「ことば」に関する印象的な出来事を、書いてみようと思います。

それは、高校生の頃でした。

ぼくは、アルバイトを始めました。

将来、叶えたい夢があって、その夢のために貯金がしたかったのです。

放課後、部活に行く友達から、

「がんばれよー!」

と言われ、それを、

「ありがとう!」

と受け取り、

「お前も部活がんばれよー!」

と返して、バイト先に行っていました。

自分の将来のために、自分の夢のために努力している時間は、大変だけど充実していました。

毎月、銀行口座の預金残高が増えていくのを見ると、少しずつ夢に近づいている気がして嬉しかったのをよく覚えています。

寒い季節のことでした。

父親が病気になりました。

元々その兆候はあったようですが、ぼくと兄と妹に心配かけまいと、両親は隠してくれていたようです。

しかし、それがどうにもならなくなって。

ぼくのお金が、生活費に回るようになりました。

毎月すこしずつ増えていった預金残高が、今度は逆に、毎月どんどん減っていきます。

夢のための努力が、生きるための苦労に変わっていきました。

疲れはするものの、充実した時間だったバイトの時間が、つらいだけの時間に変わってしまいました。

そして、そのつらい時間は日を追うごとに増えていきます。

そうしないと、家族5人の命をつなげないから。

そして、変わったことがもう一つ。

「バイトがんばれよー!」

放課後、友達はいつもと変わらずそう言います。

この「がんばれ」に、「ありがとう」と言えなくなってしまいました。

友達からの「がんばれ」を受け取ることが、できなくなりました。

「お前も部活がんばれよー!」

それだけ言って、バイトに行くようになりました。

友達は「ありがとう!」と、素直に受け取ってくれるのに、ぼくはそれができませんでした。

友達の応援の気持ちは分かっていても、そのエールを受け取るのが辛くなっていました。

夢のための「努力」が、生きるための「苦労」に変わってしまったからだと思います。

友達から「がんばれよ!」と言われるたびに、「これ以上がんばれないよ」
と思いました。

それに、その友達のエールを受け取ることができない申し訳なさもありました。

そんな風に、くたくたの時間を過ごして、二年生に進級して、春も過ぎたころ。

教育実習に、大学生が何人か来ました。

ひとり、キレイなお姉さんの実習生がいて。

キレイな人は、男子にも女子にもすぐに人気になります。

いつも、その人の周りを生徒が囲んでいました。

もちろん、ぼくもその一人。

放課後も、その人を囲んで話をしていました。

バイトの時間が迫り、教室を出ようとするぼくに、その人が「部活?」と聞きます。

「いえ、バイト行かなきゃいけなくて」

そう言うぼくの状況を、友達が説明しました。

「そうなんだ、ファイト」

その人は、そう言いました。

「ありがとうございます!」

ぼくは、素直にそう言って受け取れました。

そのまま教室を出たのですが、すごく不思議でした。

「がんばれ」は受け取りにくいのに、「ファイト」だと、すんなり受け取れる。

応援の気持ちは、きっと「がんばれ」と言う友達と変わらないはず。

正直に言えば、そう言ってくれた人がキレイな人だったから、というのはあるかもしれません。いや、確実にあります。

だけど、そのことを差し引いても、言葉が少し違うだけでこんなにもすんなりと受け取れるのか、というのは、ぼくにとっては大発見でした。

そして、それからまた時間が経って。

教育実習も終わり、そのキレイな人とも寂しいお別れをして。

季節が巡って、また寒い時期になりました。

その頃になると、周りの友達は積み重ねた努力で自分が何者であるかを名乗れるようになります。

野球部のキャプテン。

成績優秀な優等生。

アマチュアバンドのボーカル。

周りの友達の日々の努力が結果を出し始め、自分に名前がつきます。

ある日の昼休み。

それぞれが、それぞれの活動の話をしていました。

夏の大会で、いいところまで勝ち進んだけど惜しくも負けてしまった。

成績でずっと勝てなかった友達に、模試の得点で勝つことができた。

地元の、憧れのライブハウスで演奏できた。

ぼくには、何もなかった。

毎日、必死にがんばっている。という点は、みんなと変わらないはず。

なのに、何の結果も出ない。

出る結果と言えば、命が明日につながるということだけ。

「俺は、毎日戦ってんだよ」

苦し紛れの、精一杯の強がりだったと思います。

それに対して、野球部のキャプテンがこう言います。

「お前が戦ってる相手と、戦いたいやつなんていねーんだよ。っていうか、戦おうと思って戦う相手じゃねーし」

それに対して、僕は言いました。

「だから俺は、選ばれた戦士なんだよ」

わざと、大げさに、かっこつけて。

これもまた、きっと苦し紛れだったと思います。

苦し紛れに、そして、冗談めかすことで、この話題から逃げようとしたんだと思います。

でも、自分がこう言った時に、自分自身が救われたような気がしたのも事実でした。

救われたというか、自分を表す言葉をみつけた。

自分に、名前がついた。

考えてみれば、その通りだったんです。

スポーツがうまくなりたくて、その世界に入って戦う。

頭が良くなりたくて、勉強という相手と戦う。

それは、戦いたいと思う人も多くいます。

だけど、戦いたいと思えば誰だって戦える。

でもぼくは、今日を、明日を生きるために戦っていた。

そんな相手と、戦いたいなんて思っていない。

でも、戦いたいと思って戦える相手でもない。

ということは、ぼくが戦ってる相手と戦えるのは、限られた人間だけだ。

つまり、選ばれた戦士だ。

「かっこよすぎだろ」

なんて言われて、皆で笑い合ったけど、ぼくは本当に嬉しかったんです。

それと同時に、すごく不思議でした。

今まで、人から言われた言葉に元気をもらったりしたことはあります。

それこそ、「ファイト」と言われたり。

それから、好きな歌の歌詞に励まされたり。

たまたま読んでいた本に出てきた言葉や、見ていたドラマのセリフに生きる希望をもらったりという事は、時々ありました。

今なら、SNSからそういう言葉を拾えることもあるかもしれません。

だけど、自分が発した言葉に救われたのは、初めてでした。

苦し紛れの、強がりに言った「選ばれた戦士」が、自分の名前になりました。

しかも、とびきりかっこいい。

「俺は、選ばれた戦士だから」。

この名前のお陰で、路線バスに轢かれたときも、頭に8cmの脳腫瘍が見つかったときも、強気で戦えた気がします。

「ことば」に関して、自分の人生で印象的だった出来事は、このふたつ。

同じ気持ちでも、ほんの少し言葉を変えるだけで、受け取り方が全く違うということ。

だから、人に自分の気持ちを伝えるときは、その気持ちにピッタリの言葉を選ぶのも大事だけれど。

相手の気持ちに合わせた言葉を選ぶのも、また、大事なのだと思います。

それを、思いやりと言うのかもしれません。

それから、自分の言葉に、自分自身が救われるということもあるということ。

自分を励ます言葉が、外に見つからないなら、自分自身で作ってしまうという手もあるのかもしれません。

きっと、こういう体験や発見を、これからもしていくのかなぁと思います。

そう思うと、これから生きていくのが、楽しみになりますね。


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