わたしが介護士だったころのはなし。
介護士をしていた。
そう言うと、「やさしいひとだ」というイメージがあるだろう。
「利用者さんの身の回りのお世話を献身的にする仕事」という世間の認識は、おおむね間違っていない。
食事、入浴、排泄。三大介助と呼ばれるこれらを中心に、時には一緒に歌ったり、ゲームをしたり、一緒に散歩に行ったり。
人に寄り添う仕事であることには間違いがないのだと思う。
わたしは、彼らを人間扱いしていなかった
「介護をしているなんて、やさしいんだね」という言葉が、きらいだ。
なぜなら、傍目からはともかく、当のわたしはまったくそんな認識をしていなかったからだ。
わたしは、利用者さんを人間として見ていなかった。
人間ではない、べつの生きものだと思って仕事をしていたのだ。
どうだ、とんでもないやつだろう。極悪非道だと思われるだろうか。
もちろん、それにはちゃんとした理由がある。
利用者さんのなかには、認知症を患っていたり、不定愁訴がおおいかたもいる。何度もおなじ訴えを続けられたり、理不尽におこられたり、時には手を上げられることもある。
便失禁をしているのに、オムツの取り換えを強く拒否されたり、今週もまたお風呂の誘いを断られたり。そういったことは往々にしてあることだ。
人間同士は、言葉が通じる。理屈も通じる。そう思うからこそ、通じないときには腹が立ってしまう。腹が立つとイライラする。
こ ん な に て い ね い に や っ て あ げ て る の に。
「やってあげている」などという言葉は、傲慢だ。
介護士だって仕事のひとつだ。善意じゃない。
ただ給料を得るために、その対価として労働をしているだけに過ぎない。
ただ、「ひとに寄り添っている仕事である」。そういう認識から、このような思考に陥ってしまうひとが、周りにもたくさんいた。
人間だと思わないから、腹が立たない
たとえば、かわいがっている犬に、急に噛まれたらどうだろう。
猫に引っ掻かれたら?
それをされて、本気で怒る、殴る、虐待するひとがいるだろうか。
人間でないから、言葉が通じないから。「彼らの理屈」を推測するしかないから。受け入れざるを得ないと思うのだ。
なにをされても、かわいい。100%受け入れられる。
純粋にそう思えるのは、きっと相手が「動物」だからだ。
だから、わたしは利用者さんを人間と思わないことにした。
彼らになにをされても、腹が立たない。
言葉が通じなくても、理屈が通らなくても、感情をゆさぶる行動が届かなくとも。叩かれても、詰られても。笑顔で対処できるようになったのは、「人間扱い」をしなくなってからだ。
「ひとに寄り添う仕事」ではなくなったことで、「やってあげる」精神からも解放されることができた。
我が家の犬や猫の世話を「やってあげる」なんて思うひとはいないでしょう。そこには対価もなにも存在しない。ただ、対象が可愛いから、好んで世話をしているだけのこと。
不思議なことに、こう考えかたを変えてから、わたしの仕事は円滑に回るようになった。「やさしさ」というものを捨て去ってから、利用者さんにすごく好かれるようになった。
利用者さんを笑わせるために、さんざんいろんなことを言って、やって。「あんた、ほんとうにヘンな人!」なんてケラケラ笑ってもらえるようになった。
でも、家族の介護はむずかしいなぁと思う。だって、さすがに家族を人間じゃないなんて思えないから。
介護において、もっとも大切なこと
後輩を指導する立場になって、こういう質問をされたことがある。
「介護でいちばん大切なものはなんですか?」
「自分の身体を守ることです。」
そう答えたのが婦長にばれて、烈火のごとく怒られた。
曰く、「利用者様に寄り添う介護士にあるまじき身勝手」であるのだそうだ。
ただ、これにも理由がある。
どんなに良い介護をしようと心がけたところで、技術を身に付けたところで、それを行う自分自身が健康でなければ、現場に立っていることができなければ、絵に描いた餅にすぎないのではないか、という想いだ。
介護は肉体労働だ。長い目で見れば、無理せずに継続していくことで、きっと喜んでくれる利用者さんは増えるはずだ。
だから、わたしはいまでもそれが正しかったのだと信じている。身勝手でごめんなさいね。
たぶん、間違いはない
学生のころ、2ヶ所の施設に実習に行く機会があった。
「ミキサー食」という、スープのような、糊のような形態の食事がある。
専門学校に入って半年、最初の施設では、ミキサー食を提供しているかたへの食事介助の際に、主菜と副菜を混ぜて提供していた。
「あなたはミキサー食のご飯をを食べてみたことがある?味気なくて、正直おいしくないでしょ。だからせめておかずと混ぜて、利用者さんにはおいしく味わってもらおうと思うのよ。」
なんという心遣いだろう。そのやさしさにつよく感動した。2年生になり、次の実習先でミキサー食の食事介助を指示された際、わたしは自信満々におかずを混ぜて介助をしたところ、担当職員さんにこれまたこっぴどく怒られたのだ。
「あなたは今、自分が何したかわかってるの!?ご飯とおかずを混ぜて!!あなたは家でそうやってご飯を食べるんですか!?」
怒られた際に「前の施設はレベルが低かったのね!」と吐き捨てられたのをいまでも覚えている。でも介護においてのアプローチは、たぶんどっちも正しいんだと思う。
実利を考えるのか、気持ちに寄り添うのか。就職をして、わたしは前者を選択した。利用者さんを人間扱いをしていないから、純粋に「少しでもおいしく食べられるほう」を選んだのだ。ひとによっては、レベルの低い介護に思われるかもしれない。でも、これは決して「間違い」じゃない。
「誰にでもできる」けど「誰にでもはできない」仕事
介護という仕事を一言であらわすならば、こうなるのかなぁ、とぼんやり考えている。
介護士がやることは、身の回りのことだ。
建築士が図面を書くことや、大工さんが、正確にものを作ることにくらべると、失礼な言いかたかもしれないけども、誰にでもできることだと思う。
だけど、そこには思想がある。理想の介護のかたちは人によってちがう。
てきとうにやっていれば、それでも一見できてしまうし、真剣に突き詰めようと思えば、いくらでも考えられる仕事だと思う。
だから介護は大変だけど、たのしい。
「大切なこと」にしても、「食事を混ぜるかどうか」にしても。
なにも考えずに、漠然とやったことでないのなら。そこに少しでも自分なりの考えがあるのなら。それはきっと、そのひとが出した正解だと思うのだ。いろんな正解があっていいよね。
色々あって離れてしまったけども、介護のことはいやになったわけじゃない。ない頭をしぼって、あれこれ考えるきっかけになった、最初のお仕事。
やさしさのかけらもない介護士だったわたしも、そんなことをたまーに思い出しては、なつかしくなるのです。
利用者さんにはすっごく笑ってもらえたよなぁ。でも、職員には怒られてばっかりだったなぁ、なんて。
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