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「心ある介護」 ―「訂正可能性」の介護1― 爺のお勉強note

 近内悠太(教育者、哲学研究者)さんの『利他・ケア・傷の倫理学』(2024年 晶文社)は介護について考える際にとても参考になります。
 この本の帯に東浩紀(評論家)さんの次のような言葉が記載されています。

 「訂正可能性の哲学」がケアの哲学・・・ケアとは、あらゆる関係のたえざる訂正のことなのだ。

 私は、四半世紀も前に東浩紀さんの『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(新潮社、1998年)を夢中になって読んで、全く理解できませんでした。
 また、近年の『訂正可能性の哲学』(ゲンロン叢書、2023年)も夢中になって読み、ほとんど理解できませんでした。でも、「訂正可能性」という概念にはとても魅力を感じております。 

 その東浩紀さんの「訂正可能性の哲学」がケアの哲学と結びついているというのは、まさに目から鱗でした。

 では、近内悠太さんの『利他・ケア・傷の倫理学』(2024年 晶文社)を紐解ひもときながら介護の世界を少し渉猟しょうりょうしてみたいと思います。


1.介護の世界と「心」

(1)介護の心と当事者の「心」

 よく、介護の心という言葉を耳にします。私はあまり使いませんが、なんとなく良さげなイメージの言葉です。介護の心についてGemini(生成AI)に聞いてみたら次のような回答(一部)でした。

 介護の心とは、一言で言い表すのは難しいですが、相手への深い理解と共感そしてその人らしさを尊重する気持ちが根底にあると言えるでしょう。

より具体的に説明すると、以下の要素が挙げられます。
・相手の立場に立って考える: 介護を受ける方の身体的、精神的な状態、過去の経験、そして現在の希望などを理解し、その人にとって何が大切なのかを考えます。
・温かい心で接する: 相手の言葉に耳を傾け、共感し、温かい言葉をかけて安心感を与えることが大切です。
・尊厳を大切にする: 相手をひとりの人間として尊重し、その人の人格や尊厳を傷つけるような言動を避けます。
・自立を支援する: 相手の能力に応じて、できる限り自立を支援し、生きる喜びを感じられるようなサポートを行います。
・笑顔を忘れない: 笑顔は、相手だけでなく、介護をする人自身にとっても心の癒しになります。

 介護の心は、技術的なスキルだけでなく、人間としての温かい心が求められます。それは、日々変化する相手の状況に対応し、その人に合ったケアを提供していく上で不可欠なものです。

引用:Gemini 2025.09.01

 生成AIは実に便利ですね。Geminiによると・・・
 介護の心の基本には他者の理解と共感、そしてその人らしさの尊重がある
ようです。

 でも、介護の心とは、介護する人たちの心、心がけ、心得こころえということなのでしょうね。
 では、介護の世界で、介護される当事者(お年寄り)の「心」が問題となることがあるのでしょうか?
 
 お年寄りに関しては、ニーズ、課題、個性、性格、好み、癖などの言葉が用いられることはあっても、「心」という言葉はあまり使われません。
 つまり、お年寄りの「心」が話題になることは少ないというか、ほとんどないように思われます。
 介護の世界では面倒な「心」とか「実存」とかという言葉は避けられる傾向にありますからね。

(2)「心」って何?

 Gemini(生成AI)によると、介護の心の基本には他者の理解と共感があるようです。この、他者を理解するということについて、「心」という普段はあまり使わない概念を用いて考えてみたいと思います。
 ようするに、当事者(お年寄り)を「心」ある存在、心的存在として考えてみようということです。

 介護では、相手を理解し共感することが求められています。
 理解し共感するということは、単に相手の外面的な理解、客観的、科学的な理解、表層的な理解だけではダメだということでしょう。客観的、科学的な理解では共感できませんから。

 やはり、介護では、相手の「心」を理解することが求められているのかもしれません。この理解しなければならない「心」とは何かについて整理しておく必要があるでしょう。 

 近内悠太(教育者、哲学研究者)さんは「心」とは次のように、自我と超自我の間のズレ、ねじれ、矛盾、葛藤、揺れ動きのことだとしています。

 精神分析を生みだしたフロイトは・・・私の中にいて私(自我)を監視し、「~すべきである」という規範性を担当する高次の私を「超自我」と呼びました。超自我は私の中に存在していて、「私のあるべき姿」すなわち「理想の私」を指示する機能の別名です。

近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社p46

 自我と超自我の間のズレ、ねじれ、矛盾、葛藤、揺れ動きを僕らは総称して「心」と呼ぶ。

近内悠太2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社p49

 これは「心」について、とてもわかりやすい説明だと思います。

(3)訂正可能性と「心」の理解

 この「心」概念はとても大切だと思います。他者を理解し共感するということが他者の「心」を理解するということであれば、それは、当事者(お年寄り)を固定的、不変な者として理解するのではなく、不安定で可変的な存在として理解するということになるでしょう。

 他者理解、特に介護の世界での他者理解は「〇〇さんは頑固」だとか、「〇〇さんは気が弱い」とか、「〇〇さんは認知症」だとか、「〇〇さんは訴えが多い」などのステレオタイプで固定的、本質主義的な理解だけであってはいけないと思うのです。

 やはり、共感するためには、その方の「心」を理解することが大切だと思います。

 つまり、矛盾に満ちていて、葛藤していて、揺れ動く、可変的で移ろい易い存在として、その方を理解することが介護には必要なのだと思います。

 簡単にいえば、決めつけすぎてはいけないのです。もし、他者を理解したと思っていても、常に訂正に向けて開かれている必要があるのだと思います。

(4)安心と信頼と「心」

 「心」とは、自我と超自我の間のズレ、ねじれ、矛盾、葛藤、揺れ動きですから、定まったもの、固定的な存在ではありません。

 医療・福祉・介護の世界でよく使われる言葉に「信頼関係」、「信頼」という言葉があります。
 いわく「職員と利用者との信頼関係」「ケアマネと利用者との信頼関係」。
 また、フランス語のラポール(rapport:信頼)という言葉も介護の世界ではよく耳にしますね。ラポールは医療・福祉・介護関係の法人や施設の名称にも使われていますからね。医療・福祉・介護関係者はこのラポール・信頼という言葉が好きなようです。

 この「信頼」という言葉は「心」と深く結びついています。

 近内悠太さんは、「信頼」「安心」という言葉、概念の違いについて次のように説明しております。

 信頼は、社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、相手の(自分に対する感情まで含めた意味での)人間性ゆえに、相手が自分に対してひどい行動はとらないだろうと考えることです。

 つまり、信頼は不合理性に根ざしているということです。合理的に考えて、私に危害を加えないだろうという信念、あるいは、私に危害を加えることがそもそもできないだろうという信念は「安心」である、とされています。
 たとえば、法による拘束や警察機構によって、安心を構築することはできます。ですが、そういったシステムからは、「信頼」は出てこない。信頼とは、不確実性から生まれるのです。

近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社p103,104

 「安心」は確実性、固定性、合理性に基づくものですが、「信頼」にはその確実性が欠如しているのです。不確実性があるからこそ「信頼」と言うのです。
 「信頼」の基底には「心」的存在である人間の不確実性、非合理性があるのです。つまり、「信頼」とは自我と超自我の間のズレ、ねじれ、矛盾、葛藤、揺れ動きにより不確実で不安定で移ろい易い「心」的存在に特有な有様ありさまなのです。

 ですから、「安心できる介護」と「信頼できる介護」は全く違うのです。

 近内悠太さんの次の文章がこの辺の事情をわかりやすく伝えてくれています。

・・・信頼の対概念である「安心」の問題点は一体何でしょうか?
それは、相手に「証拠の提出」を求める点です。信頼とは、証拠はないけれども、相手を信じることができるというものでした。エビデンスもファクトもないけれど、あなたが言っているなら私はそれを信じる。これが信頼の形式です。

近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社p105

 「安心」にはエビデンスやファクトを提供できるシステムを構築する必要があり、その構築にはコストと時間をかける必要があるようです。

 安心は、「コスト」と「時間」がかかります、だって証拠を集め、レポートにまとめ、それをプレゼンしてようやくゴーサインが出るからです。

近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社p106

 しかし、「安心できるシステム」を構築したとしても「信頼」が生まれるわけではないのです。 

 機械的な、マニュアルに基づいた計算的思考からは、信頼が生まれない、と。

近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社p109

 安心だから「信頼」するわけではないと思います。
 「信頼」には信仰にも似た何らかの飛躍が必要だと思いますし、ける要素もあると思います。「信頼」されるためには、飛躍させるだけの魅力、賭けさせるだけの魅力という要素が不可欠なのかもしれません。

(5)振る舞いに「心」を見る

 では、自我と超自我との間のズレである「心」をどのようにしたら理解することができるのでしょうか。

 近内悠太さんは、相手の振る舞いに「心」を見ることができるとしています。

「・・・私はあなたの振る舞いに潜む矛盾、葛藤、揺れ動きを見ることができる。自我と超自我のあいだに立ちすくみ、どちらに転ぶこともできず宙づりにされたあなたを見ることができる。その運動を、その2者の関係性を心と呼ぶことができるのであれば、心は隠されていない。」

近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社p49

 確かに、介護の世界で、当事者(お年寄り)をアセスメントしたり、ご本人にインタビューしたりして、「心」を理解しようとしても、本人自身が自分の矛盾し、葛藤し、揺れ動く自分の「心」を説明すること、表現することは難しいでしょう。

 ましてや、認知症をわずらっている方にそれを求めることは酷でしょう。

 やはり、介護現場でも、その方の振る舞いから推し量るしかないと思います。

(6)心は星座・物語

 普通、私たちが「心」という言葉を意識するのは、人の言動を見ていてもよくその方を理解できない場合ではないでしょうか。
 ようするに、一般的に「心」とは、外面からうかがい知ることのできないその人の内面を表す言葉、概念でしょう。

 介護の世界で言えば、当事者(お年寄り)の「心」がまずあって、その「心」が外面、言動に現れてくる。それを基に、職員らが内面・「心」を推し量り理解する、ということになると思われているのでしょう。

 この考えは「心」という内面・実体があって、それが振る舞い、言動として外面に出てくるということです。

 しかし、近内悠太さんは、このような考えを次のように否定しています。

  心は私だけが把握することができ、あなたの心に私は触れることができないという像。心の自閉。私は私の心に閉じ込められ、私はあなたの心の写し、翻訳としての外面的な発話や振る舞い、表情しか受け取ることができない、と。

近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社p176,177

 心があるから、ある言葉が口に出るのではありません。心が確固たるものとして先行して存在しているから、ある振る舞いが起こるのでもない。ある言葉が、「心ある言葉」となり、ある行為が「心ある行為」となるのです。

近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社p176,178

 当事者(お年寄り)の隠れた内面性が「心」なのではなく、その方の振る舞い、言動そのものが「心・言動」なのです。
 不正確な言い方になってしまいますが、その方の発する言葉、振る舞いそのものに「心」が宿っているのです。
 近内悠太さんは「心」を宿した振る舞い、言動を理解するということは、一つの星(振る舞い・言動)ではなく、星(振る舞い・言動)の繋がり、つまり、星座を見出すことだと説明しています。

 心を知る、心が分かるとは、星座を見出すことに似ている。その他者を主星とする星座全体を見通すこと。しかし、僕らは他者をたった一つの星だと思い込んでします。

近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社p155

 人の「心」は一つの星ではなく星座なのです。つまり、その方の人生、人間関係、社会関係、経済関係が織りなす星座なのだといえるのでしょう。

 また、近内悠太さんは、「心」は「物語」でもあると次のように記しています。

 心は瞬間の感覚のことでもなければ、その瞬間の振る舞いだけに回収されるものでもない。「あなたの心」は時間的幅を持った物語として、「他者たる私」に把握される。

近内悠太 2024「利他・ケア・傷の倫理学」晶文社p185

 当事者(お年寄り)の「心」を理解するということは、その方の「物語」・「ナラティブ」[1] を理解することになるのだと思います。

 さて、「心」という概念をとおして介護を考えてみると、昨今の科学的介護、EBC(Evidence Based Care:エビデンス主義的介護)などは、全く「心ない介護」ということにならないでしょうか?

 もちろん、非科学的介護や根拠のない介護はごめんですが、介護には多面的な見方が必要だと思うのです。
 私は、科学的介護・AIの時代だからこそ「心」という観点を大切にした介護が必要だと思っています。


 「大切なもの・こと」―介護の「訂正可能性」2 へ続く予定です。


[1]ナラティブ(narrative)とは、英語で「物語」「語り」「話術」を意味する言葉。ナラティブは、ビジネスシーンや医療現場、臨床心理、教育などのさまざまな場面で使われています。

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