#短歌
「または、最善説」30首(「穀物」第2号)と、いくつかの異稿
はじめに2015年11月発行の「穀物」第2号が完売したので、掲載作「または、最善説」30首を公開します。この連作は、作者としてはあまり出来の良いものではなかったと感じていて、歌集が出る際には改作するか、全く載せないかのどちらかだろうと思いつつ、余裕が無くてずっと放置していたものです。
そうは言いつつも、この連作を作る段階でかなり苦しんだ記憶は今も鮮明に残っていて、これ以降「連作を作る」という行為
Dead Stock(12首)
もうすこし美しくなるはずだつた器が誰の心にもある
この街を消費してゐる僕たちはイオンに寄つてから大学に行く
新設の書架のひかりを浴びながらレーニン全集、とほい呼吸よ
あくまでもそれはいたみで、みづうみにゆらぐ水面のやうに呪つた
君の死後を見事に生きて最近のコンビニはおにぎりが小さい
掛け持ちのバイトのやうにやめられるはずも無かつた まだ生きてゐる
暗闇を知つてゐるから見えるんだ点滅をく
定刻(「かばん」2017年5月号・ゲストルーム)
思ひ出の芽吹く季節に出て行かう時をり花をうしろへ投げて
かつて見たすべての春が窓といふ窓を両手で散らかしてゐる
駅までのおよその距離を考へて途中にコンビニを思ひ出す
間に合つた順に扉のむかうへと流されながら流れを作る
記憶からこぼれた声を埋めながら 消えるね、たんぽぽの綿毛たち
定刻を告げて鳴り止む音楽の耳に沈んでゆく切れつ端
いつてしまつたものの気配をひき寄せて夜のホームに迷ふはなび
溜め息交じりの強かさ――遠藤由季『鳥語の文法』書評
「かりん」所属の作者による、約7年ぶりの第二歌集。2010年から2016年にかけての375首を収める。
ガムテープの芯の真ん中にいるようだ荷物がまとまらない真夜中は
いつもなにかを抱えておりぬカステラの底のざらめはさりさりとする
わたくしを薄めゆくのは言葉なり蜘蛛のひかりを纏う本選る
読み始めると、こうした歌が溜め息交じりに響いてくる。職場や家族、更には年齢といった、個人の生活に関わる歌も
感情が突沸する時――染野太朗『人魚』書評
「まひる野」所属の作者による、5年10ヶ月ぶりの第二歌集。記載はないが、412首を収める。
父の揚げた茗荷の天麩羅さくさくと旨しも父よ長生きするな
教壇に黒板消しを拾い上げおまえも死ねと言ってしまいぬ
あなたへとことばを棄てたまっ白な壁に囲まれ唾を飛ばして
読み進めていくと、こうした強い言葉や感情を伴った歌と頻繁に出会う。引用した歌ではそれぞれ、肉親や、生徒や、「あなた」に対する〈私〉の感
言葉を信頼して「読む」こと――北村薫『うた合わせ 北村薫の百人一首』書評
「小説新潮」誌上で五〇回に渡って連載された、小説家・北村薫による短歌鑑賞エッセイを纏めたもので、巻末には藤原龍一郎・穂村弘との鼎談も収録されている。
とは言え、この本は普通のいわゆる「秀歌鑑賞」の本ではない。毎回、テーマに沿って、著者が古今東西の歌集から対となる歌を引いてくるわけだが、何よりその組み合わせが特異で、毎回驚かされる。例えば、「祈り」の章で斉藤斎藤の「シースルーエレベーターを借り切
詩型が持つ錨について――川野里子『七十年の孤独 戦後短歌からの問い』書評
総合誌等に発表された文章を集めた評論集で、「出発について」「源について」「今について」「未来について」という、時代の流れに即して配された四章から成る。版元はここ数年話題の書肆侃侃房である。
戦後七十年であった昨年(2015年)は、現代短歌のこれまでの流れを改めて問う機会が雑誌等でも多かった。川野はまず、冒頭の「七十年の孤独――第二芸術論の今」において、「現代短歌とは、第二幻術論以後の短歌のこと
家宝は寝て松(「うたつかい」第29号)
寝不足と在庫をひきずり家を出る今日も元気だ推しが可愛い
「無敗間に合ひました!」とふ誤字つぶやけばタイムラインにニケのほほゑみ
壁際に神がゐるからおづおづと買ひに行くんだギクゴス本を
少しづつ新刊は売れ手元にて百円硬貨じやらじやらと鳴る
薄い本売り合ひながら六月のインテックスに雨を聞きをり
風通しの良い「場」を目指して(「現代短歌」2016年8月号歌壇時評+あとがき)
「歌壇」[2016年]6月号の特集「結社の進路――結社の近未来を考える」を読んで、しばらく考えさせられてしまった。寄せられた文章のタイトルだけを並べると、「歴史の蒸発、地方の死」(山田富士郎)、「かなり暗い」(五十嵐順子)、「少し楽観的に」(中地俊夫)、「わたしたちの、不断の文学活動が大切だ」(岡井隆)という調子で、目次を開けただけで気が滅入りそうになる。だが、結社構成員の高齢化や、若年層の結社
もっとみる「声」の持ち主(「現代短歌」2016年7月号歌壇時評+あとがき)
最近、短歌における「声」について、ぼんやりと考えている。
「歌壇」[2016年]3月号の座談会「震災詠から見えてくるもの」において本田一弘は、自身の最近作「さんぐわつじふいちにあらなくみちのくはサングワヅジフイヂニヂの儘なり」(「サングワヅジフイヂニヂ」「短歌研究」[2016年]2月号)に触れつつ、「自分たちの世界は『サングワヅジフイヂニヂ』という濁音であり、ちょっとなまっている。あれから五
レプリカの羽(「現代短歌」2017年8月号)
五月五日、板橋区立美術館「絵画は告発する」展。祖父の絵を十年ぶりに観る。
語らるることなきままに喪へるこゑ カンヴァスに青の佇む
五月十九日、夕方に東京着。速報はTwitterで確認。
最初から生きてゐなかつたことにして(何が?)レプリカなのだおまへも
五月二十九日、この原稿の依頼を拝受。メールにて企画の主旨を問ひ、日付をばらす了承を得る。
名をつらね歌をつらねてそののちのわれに聳ゆる豊