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#映画感想文 『私たちの永遠の夏』

手元のデジタル時計が22:00に変わった。

夜の静けさとは裏腹に、私たちの興奮は冷めなかった。それでも「また明日」と言って、有楽町線に乗り込んだ。暗い窓に反射する私の顔は、自分でも驚くほど楽しさに満ちていた。



先日、第34回東京国際映画祭が幕を閉じた。

映画祭とは、実に不思議な空間である。

会場には老若男女の「映画好き」が集い、時間になればぞろぞろとシアターへ人が流れ込んでいく。世界注目の話題作から、無名監督のデビュー作、豊かな国も貧しい国も、エンタメ作品も、社会派作品も、スクリーンの前ではすべてが等しく、その時間を誰も止めることができずに、ただひたすらに時が過ぎていく。

シアターをあとにする観客は、笑顔に満ちている者、不満げな者、涙を流す者、スマホを眺める者など様々だが…この時の私は「友人たちと語り合う者」という枠に入っただろう。



会期中、私は1本の興味深い作品に出会った。

第34回東京国際映画祭 正式出品作品 ユース部門
映画『私たちの永遠の夏』が、それである。


エミリー・オーセル監督作のフランス映画である本作だが…レビューサイトの評価は低く、「退屈。」「分からん。」「はいはい、フランス映画ね。」といった感想が目立つ。

確かに、私も鑑賞中は「映画祭の洗礼を受けたな...」という印象を持ったのだが、のちに、本作こそ今年の映画祭を代表する1本であり、最も面白い映画だったと言うことは、誰が想像できただろうか。


〜あらすじ〜
永遠に続くかのような夏の日々を過ごす若者たち。だが、ひとつの事件により、それには終わりがあることを知らされる。ロカルノ映画祭新進監督部門で審査員特別賞を受賞した秀作。

引用:第34回東京国際映画祭 公式サイト

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ー 以下、ネタバレ ー




本作が描く「ひとつの事件」とは、18歳男女グループのうち、1人の女性の"死"である。

いわゆる、高校最後の夏(海外では秋入学がほとんどのため)に、若者の男女がビーチに集まっては、酒を飲んだり、タバコを吸ったりしつつ、「永遠」のように感じられる最後の時を過ごすという青春ものがベースである。

しかし勘の良い方は、もうお気付きだろう。
日が暮れた夜の海。泳ぎに行った男女2人組のうち、女性1人だけが"死"を迎える。完全なフラグ回収である。

残された若者たちの、大人になる過程と、その心情の変化をノスタルジックに描く。
人生における大切なものと、命の尊さ、生きることの素晴らしさを感じられる1本・・・・



と、いうのが、本作を可能な限り良く評価した際の、大多数の意見だろう。


だが、本作はそんな希望や単に若者の成長を描いている作品とは到底思えない。

本作の主人公たちと同世代の、いち学生が導き出した、『私たちの永遠の夏』の恐ろしさと、面白さを考察していこう。



○作品考察

本作を読み解くヒントは、1人の女性の"死"の捉え方である。
実は、彼女が「本当は死んでいない」という仮定のもと、物語を読み解いてみようと思う。

これは作品の中で、明確に彼女の"死"を映している場面がないことへの違和感からである。

遺体が発見されることも、彼女の葬儀が行われることもない。
ただ、あの日、あの海で泳ぎに行ったのち、彼女が"いなくなった"ということだけが語られている。

仮に死んでいないとするならば、ここで生まれる疑問は2つ。

・一緒に泳ぎに行った男性1人は、なぜ気付かなかったのか。
・彼女はどこへ行ったのか。


前者については、完全な憶測であるものの、かなり信憑性の高い説として、当時彼が吸っていたものがタバコではなく、大麻(ドラッグ)であったということが考えられる。これも若者ゆえの過ちの1つと言えるだろう。(海外怖っ)

オープニングから、若者たちの他愛もない会話が繰り返されているが、よく思い返して見れば、それぞれ形状の異なる"タバコらしきもの"を咥えていた。いや、もしかしたら粉状の何かを吸うシーンがあったかもしれない、とおぼろげな記憶を辿ってみたりもする。

兎にも角にも、彼はその時幻覚を見ていたと考えることが妥当である。

なぜならば、それは映画の後半、残された者の1人、"死"んだ彼女の親友であった1人の女性が、自分の道を探るため、とある演劇グループに身を置くのだが、そこで語られる演目に、「薬は危険だ、薬をやめろ」という台詞が入るシーンがある。何かを察したように、彼女は頑なに演劇に参加しない。冒頭に描かれる、1つの過ちを印象づける演出ではないかと、そう考えてしまう刺激的な一場面である。

つまり、実際に"死"んでいないとしても、彼女が消えたその日、彼の目に映る景色はどこか現実を見ていなかったのだろう。



では次に、本当は"死"んでいない彼女はどこへ消えたのか・・・。


これは、ややファンタジックな意味合いを持つかもしれないが、あの男女グループの中での彼女の"役割"が"死”んだ、というメタファーなのではないかと考えてみよう。


消えた彼女は、冒頭から男女グループの圧倒的中心、"太陽のような存在"として語られていた。

だが、これから大人になる、自分の道を歩む、その選択の時、彼女はグループの太陽としての存在を捨て、影となって消えたのではないだろうか。

もちろん物理的に泳いでどこか知らない場所へ逃げて行った、という解釈も可能だが、事件が起こる直前、男女グループが静かに地平線に沈む太陽を見つめるシーンが挟まれることが、これまた意味深である。

今の今まで、明るく、大きく、自分たちを照らしていた存在が、一瞬の間に姿をくらまし、そこにはただただ暗い闇が広がるだけ。その時、彼らは消えた太陽を追うのか、それとも自ら明かりを生み出そうとするのか、この分かれ道こそが本作の魅力である。



暴論を振りかざすのであれば、私は消えた彼女が、そもそも存在すらしていなかったのではないかと思うほどである。

まるで太陽のような存在の彼女は、眠らない若者たち、どこまでも無敵な若者たちを表すメタファーであり、そんな時代が終わるとき、"死"を持って子供のままでいるのか、"生"として大人への階段を歩み始めるのか、その瀬戸際を描いているように感じられる。


そう、私は大人になれない子供たち="死"であると考えてみた。

"死"を持って、我々は大人になるはずだが、ここで"死"んだ彼女に囚われて、同じく"死"を選んでいく者たちがいる。

私たちの「永遠」の夏を過ごしてしまう者たちだ。


そう考えてみると、タイトル『私たちの永遠の夏』は、どこかエモく、豊かな時代のように感じられる一方で、その恐怖たるや計り知れない。

沈みゆく太陽を寛容できずに、"死"こそ救済だと考え、大人になることを拒んだ彼らにとっての「私たちの永遠の夏」がそこにある。


一方、"死"を受け入れ、自分たちの愛を見つける者、夢を見つける者、友を置いていく者は、残酷でありながら、永遠ではなく、その一瞬一瞬を生きることに成功したのである。

オリエンタルに表現すれば、まさに"諸行無常"といったところだろう。


我々の潜在意識では、どこか永遠を求める性質があるらしく、"死"んだ彼女のことを忘れず、どこまでも彼女を追い続ける者たちこそ、美しいと思いがちである。

しかし、現実に存在するすべては、常に流動的であり、永遠は理想であることを悟るものだ。

本作の解釈は様々にできそうだが、私は"死"んだ彼女、いや、そもそも存在すら怪しい彼女を、若者時代の暗喩として捉え、恐ろしくも現実を描いた1本だと考える。



さて、ここで今一度、本作のポスターを見て欲しい。

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手前で我々を見ている彼女は、"死"んだ彼女の親友であり、同じく"死"を選択した者。

後ろで海の先を見る男女4人は、「永遠」を捨て夏を終えた者たちである。

観客としての我々は、今このどちらも選択できる状況にあるだろう。

きっと正解はない。
ただ、どこかで選択をしなくてはならないのだ。

「皆さんの永遠の夏」は、まだ続いているだろうか?ーーー





と、ここまで考察したのは、私ひとりではない。
作品観賞後、シアターをあとにする学生4人のうちの1人が私である。

私たち4人も多くの観客と同様に「で?なんの話?」「どういうこと?」と、愚痴にも似た疑問を吐露していた。

しかし、この疑問こそ、ここまで本作を考察するきっかけであった。

もしかしたら、ここまで熱く語っておきながら、監督の意図とは全く異なる見解かもしれない。

だが、それでも構わない。
映画は大衆娯楽であり、その解釈は作品の鑑賞者の数だけあっていいはずなのだ。

手元のデジタル時計が22:00を打ってもなお、私たちの考察は止まらなかった。
仕方なしに乗った帰りの電車でも、マスクの下で笑顔が消えなかった。


「映画祭」という舞台は、こんな観客同士の白熱した考察・議論が飛び交うべきではないだろうか。


とはいえ、昨年から続くコロナウイルスの影響で、映画祭の形も従来と比べ、大きく変化したことは言うまでもない。

「人との接触を避ける」という行為は、改めて文化殺しに拍車をかけるものであったと実感する。

それでも私は、あの晩の魅惑の時間を通じて、「映画祭」の魅力を再認識した。

「映画祭」は、たくさんの映画を安く観ることではなく、1本の映画を通して、人と繋がり、思想を共有し、新たな価値を生み出すためにあるのではないかと思う。

きっと、映画祭に出品される作品は、そうした力を持った作品が集まっているはずだ。

映画祭を作るのは、映画ではなく人ではないだろうか。



今年の映画祭で審査委員長を務めたイザベル・ユペール氏は、オープニングセレモニーの舞台で「私たちには映画が必要。そして映画もまた私たちを必要としている。」と語った。

東京国際映画祭は伸び代しかない。

世界の映画祭と比較して、まだスタートラインにすら立てていないかもしれない。

私は日本を代表するこの映画祭が、人と人、価値と価値、文化と文化が対話を重ねられるような、そんな場所になって欲しいと願う。

そのきっかけを作るのは、私たち観客かもしれない。
映画祭の舞台だけは"永遠"であって欲しい。








ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
何を隠そう、私はこの東京国際映画祭の関係者でありました。笑

紹介が遅れました、「東京国際映画祭 学生応援団」という団体の10期メンバーとして広報活動を行なっていた、カタヤナギと申します。

第34回東京国際映画祭へお越しいただいた皆さま、本当にありがとうございました!

「学生応援団」については、ぜひ下記を参照してみてください♪

https://note.com/tiffgakusei/


願わくば、このまま「学生応援団」のメンバーとして、ずっと活動を続けたいところですが、まもなく私の活動任期は終了、それ以上に大学生としての身分を卒業するわけです。笑

この1年間、学生応援団のメンバーとして、映画や映画祭の魅力を発信し続けてきました!

私たちの活動のある種、集大成とも言えるような企画が、現在noteで募集している「 #映画感想文 with 東京国際映画祭 」であります。

映画レビューをnoteで書いてみませんか?
お題企画「#映画感想文」で募集します。

noteという私の大好きなプラットフォームに乗せて、学生応援団の活動に活かしてきたわけですが、遂にnote公式よりお声がけいただき、後援としてお題を制作できるなんて、まさに夢のような出来事です。

貴重な機会を設けてくださった福田茜さん、本当にありがとうございました!
この場を借りて、改めてお礼申し上げます。
ぜひまたいつかの機会にお会いできたら嬉しいです。


先述の通り、私はまもなく任期満了ということなので、いち学生応援団ファン、いち映画祭ファン、そして、いちnoteファンとして、こっそりお題に参加してみました。笑

この考察は、同じく学生応援団メンバーと、本当に夜遅くまで会場で語り合ったものです。笑

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(ああー、本当に、本当に、楽しかったなぁ)


そして、映画祭に対する想いも嘘ではないです。
本当に上述の通り、思ってます。ぜひ、今後の東京国際映画祭がより良い場所になってくれることを心から願ってます。



おそらく、この記事も活動を共にした学生応援団の後輩たちが見ることでしょう。笑

お題の優秀作品を選ぶ審査は大変だろうけど頑張ってネ。

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それでは!

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