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父が亡くなった日から、その後の手続きや介護中のちょっとしたことをまとめています。
家族の介護というのは、ある日突然始まることが多いのではないだろうか。我が家は、2021年9月21日に父が洗面台で排尿をしているのを目撃した瞬間から始まった。最初は怒涛の日々だった。どこに何を相談するのか。幸い、私は「地域包括支援センター」の存在を知っていたので、ケアプラザを訪ね、包括の人に今後のことを相談することが出来た。 突然始まった父の介護、ちょっとした困りごとはいろいろとあった。普段の生活で改善しておけば、困らなかったなと思うことも多かった。この最初の段階でのちょっ
人が亡くなるとお金が掛かる。不謹慎なと言われそうだが、実体験として言えることだ。本当にお金が掛かる。鳥が一斉に飛び立つように大量の万札が一気に出ていく。この後の生活が大丈夫かと心配になる。 まず始めは、葬儀費用。我が家は家族葬で参列は母と私だけだったが、オプションで祭壇の花をもっと多くしたため、63万円位になった。これにお坊さんへのお布施が11万円。火葬場での火葬料が12,000円。全部含めると、70万円を超える金額になった。 支払いは現金またはクレジットのどちらか
告別式を終えた後、遺族が次にやらなくてはいけないことは役所などの手続き諸々、相続手続き、納骨だろう。我が家はお墓がなかったので、墓探しからしなければならなかった。 墓の購入となると、金額が高いし、墓地とかマンションタイプにするとか場所はどこにするとか検討することが多すぎるので、1年位かけて探せばいいかと考えていた。家の中に、骨がずっと置いてあることになるが致し方がない。ところが、母は違った。 母と私が通っている近所の美容室に香典返しを持っていった母がお墓情報を聞いて
父の告別式の列席は母と私の二人だけだった。父の姉は高齢で遠方に住んでいる、妹は病気で体が不自由になりこちらも遠方に住んでいる。普段、母も私も親戚と交流がなく、来ることになったらそちらにものすごく気を遣うだろう。ならば、二人で送り出そうということになったのだ。 結果として、これで良かったと思っている。たとえ不義理だといわれても。心済むまでゆっくりとお別れが出来た。親戚が来ていたら色々なことにとらわれてこんな風には出来なかっただろう。 告別式が終わって、父を乗せた霊柩車
人が亡くなるとやらなくていけない事の何と多いことか。慣れていない手続きの連続である。気ぜわしい日々が続く。その「やらなくていけない事」は直後から始まる。 父の息がとまった連絡をうけて駆け付けた訪問診療の先生により死亡宣告がされた。その後、先生は部屋の片隅で何か書類を記入していた。「死亡診断書になります。こちら半分に記入して頂き、葬儀会社に渡して下さい。渡す前に何部かコピーを取っておいた方がいいですよ。」と薄い紙を渡された。コピー用紙ではなく、妙に薄い紙。少し透けて見えるそ
最近、父を亡くした。誤嚥性肺炎、85歳だった。我が家は母と私の二人暮らしになった。 2年前にアルツハイマー型認知症が発覚、同じ頃に原発性硬化性胆管炎とも診断された。要介護1と認定され、Suicaのチャージや電車の乗り換えなど出来ないこともあったが、一人で隣駅の理髪店に髪を切りに行ったり、数駅先のホームセンターに買い物に行ったりは出来た。自分の足で歩いてどこかに行くことは出来たのだ。長い時間をかけて、進行していくものと母と私も思っていた。 昨年の夏、父は軽い熱中症になった
カフェでBLTサンドを食べていて、学生の時に好きでよく食べていたトマトサンドを思い出した。その頃はまだ野菜嫌いだったはずなのにどうしてあのトマトサンドが好きだったのだろう。 学校の前の通りにはサンドウィッチ屋とおにぎり屋があった。コンビニも今ほどあちらこちらにはなかったと思う。大抵、このおにぎり屋やサンドウィッチ屋で買っていた。おにぎりは青菜のおにぎり、サンドウィッチはトマトサンドがお気に入りだった。 子供のころから野菜が嫌いで、嫌いな食べ物はと聞かれ「野菜!」と答
夏の花と言えば、向日葵や朝顔が代表格だろうか。我が家も毎年朝顔を植えている。しかし、真夏の本当に暑くなる時期は何故か咲く花数が減る。ちょっと涼しくなる秋口になると花数が増えてくる。夏の花なのに暑さに弱いのかと思っていた。 この間、咲いた朝顔を観察していてふと思った。自分の中の「夏の朝顔」のイメージはいつの時代のものだろう。自分が小学生の夏休みの時のものではないだろうか。子供頃、夏は今ほど暑くはなかった。朝夕は涼しく、日中の気温も30℃になるのはたまで、大抵27℃や28℃だ
先日、眼鏡を買い替えた。それまでのものを結構使っていたのでそろそろ換え時であった。最近はJINSで購入している。土日は客が多く、平日に休みを取った時にと思い、延ばし延ばしになっていた。 眼鏡をかけ始めたのはいつからだったろうか。中学生の時だったろうか。最初の眼鏡は、商店街の時計・眼鏡店で買った。その内、チェーンの眼鏡店で買うようになり、JINSの店舗が増えてきてからはそこで作っている。 長年、眼鏡を掛けているが自分にどんな形のフレームがあっているのか未だに分からない
最近、不思議に思っていることがある。「今どきの中学校はジャージ登校がOKなのか?推奨されているのか?」ということ。朝の通勤時に登校中の中学生に会う。ジャージを着ている。一人だけではない、通り過ぎる中学生みんなだ。 最初にジャージ姿の中学生を見た時は、「今日は体育祭かその練習日か」と思った。ところが、何日も続いた。一人なら何かあったと考えるが、みんなとなるとこれは学校全体だろう。制服姿の登校姿も見たような気がするがジャージの印象が強い。どういうことなのだろう。全国的に今は
職場に向かう途中にお気に入りの家があった。木造二階建ての家だ。木造と言っても太い柱の重厚なものではなく、外壁が木の板の瓦屋根の日本家屋だ。何となく昭和を感じさせる雰囲気だった。中はどんな造りになっているのだろうといつも見ていた。 坂を上りきった十字路の角にあり、私はその坂を通っていく。玄関は別の道に面したところにあり、全貌は坂の側からはちょっと見えにくくなっていた。庭もなかなか広そうであったが見えない。柵からはみ出して咲いていた紫陽花が見えるくらいだった。一回その庭を歩
数か月前、自室で使っていた延長コードが壊れた。壊れたという表現が正しいか分からないが、プラグを挿しても電気がきていない。どこかが断線しているのか、使えないし、危ないしということで新しいものを買うことにした。 翌日、仕事帰りに家電量販店へ。延長コードの棚の前ではてと困った。1m、2m、3m、5m、7mなどなど様々な長さの商品があった。どれがいいのか。一体どれくらいの長さがあれば足りるのか。 頭の中で部屋を思い浮かべる。コンセントはベッド脇の壁にある。 使う時は反対側の
昨日と今日の境界はいつなんだろうか。ある日、ベランダから朝焼けを見ていてふと思った。 時刻という観点から言えば、0時を過ぎれば日付は変わる。正月や世紀が変る時などは「0時」が境界という感覚にはなる。しかし、普段はどうだろう。夜更かしをして、0時になった時、1時になってしまった時はどうだろうか。まだまだ日が続いているような感覚である。24時であり、25時である。 自分はいつ今日という感覚になるだろうか。朝起きて、朝日が出ていたら今日と思うだろう。まだ日が出ていなくて、
通勤に電車を使っている。朝はラッシュ時間のため混んでいる。混んでいるが日によって混み具合に差があることに気が付いた。月曜日だから混んでいるのかと思っていたら、翌週の月曜日は前週ほど混んでいなかったりした。 どういうことだろう。コロナ禍で在宅勤務もあって月一回の勤務日が曜日ではなく、日にちなのだろうか。キチンと統計を取ったりすれば、傾向が把握出来るのだろう。そこまでする気は全くない。 朝乗った電車が自分の予想よりも空いていると「ラッキー」と思う。人と密着して立っているのは
冬になると中学と高校の時の校則を思い出す。通っていた中学校は公立で、冬の制服として、黒・紺・グレー・白色のカーディガン、女子は肌色のストッキングが認められていた。これ以外は校則違反という訳だ。私は紺・グレー・白色のカーディガンを持っていて、グレー色のものが一番気に入っていた。靴下では寒く、肌色のストッキングでも登校時は足が寒かった。 高校は私立の学校に進んだ。細かな制服の校則が多かった。冬場のカーディガンは黒か紺、冬場のみ黒のストッキングが認められていた。中学校で気に入
子供ころ遠足などでお昼の時間になるのが嫌だった。お弁当が嫌だったのではなく、レジャーシートを広げるのが嫌だったのだ。私はレジャーシートを持っていなかった。 遠足の時に私が持たされたのは、ビニールの正方形のシート。今考えれば、あれはビニールの風呂敷だったのではないかと思う。ピンク地に花が印刷されていた。大きさは1メートル四方くらいだったか。広げてちょっと座る文には十分だろう。母と出掛けた時もそれを使っていた。小さいので背中合わせに座るしかない。 遠足ではシートの上に荷