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それでも私はきっと、ちぐはぐな私を抱えて生きていく。


もしも、今の私の好きなところだけを持って過去をやり直せるのなら、迷わず過去をやり直すことを選ぶ。


対人関係で心が折れ続けていくうちに、いつの間にか私の中にはいろんな自分がいるようになった。

愛想よく誰に対してもニコニコと接することができる自分。目の前の相手のいいところだけを見て、嘘やお世辞ではなく本音で相手を褒めちぎることができる自分。相手に自分から近づいていける勇気を持った自分。常に聴き手であること・他人に尽くすこと・他人をゆるすことを厭わない寛容な自分。たとえ気が合わない人とでも仲良くなりたいと思う自分。傷ついたときは静かに傷ついてその感情を隠しておける自分。少しでも失敗したら”嫌われたかもしれない”と不安になる繊細な自分。

同じマンションの知らない人とか、”無理”と思った集団の近くを通る時とか、”話しかけるな”オーラを全力で発せてしまう自分。何事も白黒ハッキリさせたくて「我が強い」「自己中だ」と言われかねない自分。傷ついた・ゆるせないと思ったらバッサリとその人を切り捨てる冷酷さを持っていて、その相手の顔は二度と見たくないと思う自分。相手の痛いところを突こうと思えばどういう言葉を投げたらいいかを知っている嫌な自分。友達なんて深く狭く信頼できる人だけで十分だと思う自分。コンビニバイトで理不尽な文句をつけて横柄な態度をとる嫌な客に当たった時に相手の主張を涼しい顔で聞き流し、最後に棒読みの「アリガトウゴザイマシタ」か、ペコっとするだけでそれさえも言わずに見送る、なんてことができるくらいの図太さを持った自分。


一見、前者の私は努力で作られたように思えるけれど、どちらも自然な私で、このうちのどの自分が、誰の前で、どんな時に顔を出すかは自分では制御不能。だからこそ、”なんでこういう時に愛想よくできないんだろ” とか ”なんでゆるせないんだろう” とか思って苦しんでしまう。



(特にリア垢の)SNSで自慢したり愚痴ったり惚気たりばかりしている人を見ると、幸せそうでよいねと思う一方で、”ああ、この人はそんなことをして自分が嫌われるとか、嫌な思いをする人がいるとか、考えずに生きてこられた人なんだな。”、”それが許される立場である人生を送ってこれた人なんだな”と思う。私のように、ただ生きているだけで嫌われたことがある人を嫌う側でいられて、”自分の幸せは周りの幸せ” とか ”幸せのお裾分け”とか本気で思える人なんだろう。自分の不幸を本気で悲しんでくれて、自分の幸せを本気で喜んでくれる友人に恵まれて生きてこられた人なんだろうな、って。

自慢とか愚痴とか惚気とか、それを含むすべての言動が許されるかどうかは言い方以上に、誰がいうかなのだ。どれだけ言い方に気をつけようと、どれだけ努力や気遣いを重ねようと、許されない人はいる。

ずっと許される側で生きてきた人と、許されない側で生きてきた人とでは、どうしたって受け取り方は違うし、きっと分かり合えない。

”キャラ”という呪いは強力で、私はこっちの自分でいたいのにそれを環境に認めてもらえないなんてことが起こり得て「なんであの子は許されて、私は許されないの」と泣き叫びたくなるような気持ちを抱えることもある。


小学生の頃の私は人の裏の顔や世の中に蔓延る不平等さなんて信じていなかったし、見ようともしなかった。「ともだち100人できるかな」とか「みんな平等なんだ」とか「努力すればなんでもできるようになる」とか全部本気で、ほんとうだと思っていた。

きっとあの頃の私はこんな薄汚い感情、知らなかっただろうな。

そして、それを人は「バカ」とか「鈍感」とか呼ぶのであろうという眩しすぎるほどの純粋さは、時にひとを傷つけてきたのだろう。今でも半分くらいは信じているようなところがある。その半分で今も無意識にひとを傷つけているかもしれない。私にもきっと、私だからゆるされていることがあるのだろうと思う。

そのことに想いを馳せてしまうとき、死にたいとは思わないけれど、ただ目の前が暗くなるような気持ちになる。



***


ずっとずっと考えている。


私の傷が決定的になった水泳部での事件はどうやったら防げたのだろう。
「ちゃんと泳いでよ。水泳部なんだから。」という旨の説得は、どうすればうまくいっていたんだろう。
私はあそこまでどうしようもなく自分の存在を否定されたのに、なぜ何も言い返さずにただただ泣いて謝るだけだったのだろう。なぜ「被害者ヅラしないで」と言われて、「え、だって被害者だし。」と言わずに「被害者ヅラしてるつもりはないよ」と言ったのだろう。


「被害者というのは、仕返しをして手を出してしまえば、その時点から簡単に加害者の側に転じてしまうことができるんです。…」
「でも、最初に手を出された方は、何も悪くないのに急に何かされたわけだから、悪いのはずっと向こうなんじゃないですか」
「相手に付け入る隙を与えてやることなんかないということですよ」
「隙、ですか」
「はい。相手に仕返しとはいえ何か危害を加えてしまった時点で、それはその人の負けです。…
 自分は何も悪くないのに、正しいのに、という言い分は強い力を持つんです。」

ぼくのメジャースプーン/辻村深月

この言葉で心底納得した。

きっと私はどこかでわかっていたのだ。

被害者という立場が、誰の目から見てもそうである「私は何も悪くない。」「私は正しいのに。」が、どれだけ強いことか。

そしてその姿勢を自覚せず無意識にとれることが、人を傷つけずにはいられない人間から見てどれだけ嫌なことなのか、を。

賢さじゃない分、きっとタチが悪かっただろうな。



人生はいつだって今がいちばん。それはあの頃に戻りたいなぁとか、あの子いまどうしてるんだろうとかって想えるような過去や人との繋がりがないからだ。どの時代の同窓会も、もう行かない気がする。


もしも生まれ変われるのなら、容姿も声も勉強ができる頭も真面目さも要らないから、ただただ人生の初期に友人に恵まれ、人に愛される人生を送ってみたい。人生をやり直せるのなら、私、きっと、うまくやるよ。



母は私をただただ捻くれずまっすぐで素直な子に育てたかったという。どの”私”を知る人からも「あなたは本当にまっすぐだね」と言われることを思うと、母の子育てはきっと成功だった。そして私も、自分の子どもを育てるときにはそんな子に育ってほしいと思う。だけど、私のように同窓会を楽しめないような過去に傷を残す人生を送ってはほしくない。ひとを愛し、ひとに愛される能力は身につけてほしい。



綺麗な私を嫌う人にも、綺麗ばかりではいられない面を見せ合ったにも関わらずその手を解く人にも、「そんなとこにあたしの大切なものはないし」とは言えず、同じように傷ついてきた。

「どうしようもなく最低な犯人に馬鹿にされたという事実は、自分のために一生懸命になった人がいること、自分がそれぐらい誰かにとってのかけがえのない存在であることを思い出すことでしか消せない」

ぼくのメジャースプーン/辻村深月


人付き合いという意味において付き合う人は数少なくとも信頼できる人さえいれば充分だ、という考え方だって、元々は”自分は愛されキャラではないのだから”と自分に一生懸命言い聞かせて身につけてきたものだった。

だけど私は、その必死に守ってきた数少ない信頼できる人たちの悲しみには手を差し伸べたいと願い、幸せには手を取り合って、彼らに対して一生懸命に向き合うことができる。彼らはその想いに応えてくれる。

ずっと欲しかったその手が差し伸べられていても、まだまだ消えない、満たされない、と欲張りな自分がいちばんめんどくさい。

「なんであの子は許されて、私は許されないの」という想いが顔を出すのも、いろんな場面で”我が強い”と”芯がある”を履き違えていないかビクビクしないといけないのも、嫌で嫌で仕方がない。


だけど私はこの、ちぐはぐな私を生きていく。
生きていくよ。


いつか吹っ切れるその日まで。










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