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弱い心はいつだって強い言葉と行動で隠してきた


「数日前から体調崩していて、今週の発表はこれ以上準備できそうにないので見送らせてください。すみません。現時点で出来上がっているところまで送らせていただきます。」


「無理」を発したのは人生はじめてのことだった。


前回は私ひとりで40ページ、今回は私ひとりで30ページ分だった。ひとりひとり割り当てられるページ数は違っていて、2回の英文読解プレゼンで合計ページ数は余裕で私が一番多い。英語の教科書を読んでその内容をプレゼンさせられるこの授業は、1週目の人は1週間しか準備できず、最終週の人は1ヶ月準備できる。資料提出が統一締め切りなわけでもなくて、なんて不平等で不公平なんだろう、とずっと思っていた。

だけどこの発表に限らず、これまでのどんなことだって、無理そうでも徹夜でもなんでもして、どうにかこなしてきた。今回だってそうするつもりで、だけど、数日前から咳が止まらなくて、徐々に1回口を開けるたびにお腹や肋骨まで響いて身体中から悲鳴を上げているようなものへと変わっていって、時折たんが絡んだり、声を枯らしたりしながら過ごしているうちに、咳のたびに身体は運動するものだから、それによる熱が回るようになってきて、とうとう親から「明日(彼との誕生日デート)は行くの諦めなさい」と言われてしまった。

中高と持久走では常に学年1位で、毎朝最寄り駅までTHE NORTH FACEの重いリュックを抱えてダッシュしていたところを父の友人に見られていて、いまだに「体力すごいね」と言われる、これまで風邪のひとつも引いたことが無かったような私が、大学に入ってストレスで1〜2年、不定期で外食時に吐き気を催すようになって、今年の6月にはおそらくコロナにかかって(特に家族以外の濃厚接触者はいない期間だったし、軽症だったから風邪だと思って医者にも罹らなかった)、21歳の誕生日を目の前にして体調を崩すなんて信じられなくて、

体調を崩している、ということをいまだに認めたくなくて、昨夜も当たり前のように発表準備をして、今日の午前中までで、なんだかんだ英語の教科書32ページ中、16ページ目までの内容をまとめた34枚のスライドを作ってしまった。

さすがに今朝のバイトは万が一のことがあって生徒に何かをうつしたら悪いから、と昨日休みの連絡をしたけれど、「一昨日から咳が止まらなくて」というと「代わりの人を探してください」と言われた。バイトに休む日の代理を探させるのは違法だ、ということを知っているし、以前「有給取れるよ」とわざわざ連絡をもらったからとった有給だって「代わりの人を探せ」と言われて、しかもその有給分の給料も支払われてなくて、ああ、ほんとうに、と思う。違法か違法じゃないかとか、正社員かバイトかとか関係なく、体調が悪いという人に対して「お大事に」以外の、ましてやさらに体の負担を強いるようなことをさせるような言葉をかけていいなんて、私は知らないけど。でもこんなのも、「体調が悪い」をサボり文句にして義務を果たさない人間がこの世にはたくさんいて「体調が悪い」という言葉を疑わなきゃいけないからなんだろう、と思うと、「体調が悪い」を本当に体調が悪い時にしか使わない自分をなんでそんなふうにしか生きられないのだろう、と呪いたくなる。



正義感が人一番強くて得することは何もない。

たとえ「他人をいじめてはいけない」「自己中心的な行いで他人に迷惑をかけたり、他人を傷つけたりするのはよくない」「安易に他人との約束を破るのはよくない」「チームで何かに取り組むときにサボってばかりはよくない(※サボる=体調不良や家庭の事情、実力を常に発揮しないというレベルでは収まらないようなもの)」というような、ほとんどの人が守れるようなレベルの低いことすらできず、周囲の人に聞いたら10人中 9.5人は悪だ、という人で、その被害を受けて、それに耐え続けた先で、耐えかねて刃を向けたのだとしても、私はどこまでいっても裁判官にはなれず、被害者で、被害者には他人を裁く権利なんてなくて、いつだって泣き寝入り。

やられたからといってやり返していては、傷つけられたからといって傷つけていては、本当に望むものは手に入らない。
相手はただ自分が気に食わないからといって理不尽な行いを自分にしていて、それはおかしなことなのに、それを許さずにいたら、許さないということはそんな相手のことを自分が気に食わないということで、自分も同類に成り下がってしまう。

だから常に、Living well is the best revenge、私はそんな人間には絶対にならないと反面教師にして生きてきた。


だけど、私が反面教師にする人というのはパターンが決まっていて、生きていたらおもしろいくらい、次から次へとそんな人に遭遇する。そして気が付いたら、「ああ、またこのパターンか」と思う。遭遇する一人一人は違う人間のはずなのに、全員同じに見える。そして、積もり積もった「そういう人」への嫌悪が、ある日突然に爆発してしまう瞬間が訪れる。


そこで気づくのだ。

変わったつもり、乗り越えたつもりになって、
傷ついたあの日からちっとも自分が変われていないことに。


「あんな人にはならない」から生まれた自分軸が「互いにとって居場所となる関係を築ける人になる」で、誰も排除しないよう、たとえ正義の刃を向ける対象であっても本人を目の前にしたら普通に接する。

でも全部、目を逸らしているだけで、許した気になっているだけ。

ひとが好きで、友達100人を本気で信じていて、憎い相手なのに仲良くできるなら仲良くしたいという気持ちは消せなくて、いつだって許せない気持ちと許したい気持ちの狭間でがんじがらめ。

「許せない」という自分と、「仲良くなりたい」という自分、どちらが本当の自分で、どちらを信じるべきなのか、自己分析、得意なはずなのに、それだけはどうしても、こたえが出せずにいる。


だけど1つわかっているのは、正しさでしか救われない人もいて、正しさによってでは救われない心もある、ということ。


「他人をいじめてはいけない」「自己中心的な行いで他人に迷惑をかけたり、他人を傷つけたりするのはよくない」「安易に他人との約束を破るのはよくない」「チームで何かに取り組むときにサボってばかりはよくない(※サボる=体調不良や家庭の事情、実力を常に発揮しないというレベルでは収まらないようなもの)」を私は正しさだと思っているし、常にそれらが厳格に守られてないとブチギレるわけでもなくて、「ときどき正しさを発揮できなくなる人」の味方をすることだってある。けれど、それらを受け取れない人もいて、正義と思えない人もいて、息苦しいと思う人もいて、そういう人が私を嫌いになるのだろうと思う。平易な言葉で語っているけれど、私が正しさだというものを度を越して守れないときには法に触れるし、そしてそれを許せないという思いが度を越したときにも法に触れるのだろう。

だけど、どうも"正しさ"を息苦しいと思う人にばかりフォーカスして、やるべきことをやれる"正しい"人に「"正しさ"なんてないんだよ。そういう人だっているよ。」と言っても、次は"正しい人"が傷ついて損をするだけ。

そんなことが続いて「やられてもやり返しちゃダメだ」という善良さを持っていた"正しい人"が耐えきれなくなって刃を向けたら、その場面だけを切り取って、"正しい人"が非難されるのだろう。

こんなことなら"正しい人"になんてなりたくなかった。

不良にもなりたくないけど、都合よく使われるような善良でもない要領の良さを持って生きていたかった。





ずっと楽しみにしていた誕生日祝いの席を目の前に体調を崩すなんて、ほんと、最近の私にいいことなんて何もない。彼と喧嘩したりしていないことくらいが不幸中の幸い。

サボる人のせいで発表を1週間で無理やり完成させられたり、夏は最終選考まで行った会社で冬は書類で落とされたり、2022年下半期は厄年?


私よりも楽しみにして祝ってくれる彼と幼馴染に、「ごめん延期にして」なんて言いたくない。
もちろん彼らに何かうつす方が嫌だけど、全部、嫌だよ。

ずっと楽しみにしていて、毎日筋トレして、パックして、数日前から新しいアイカラーやコートを買い揃えたりしながら指折り数えて準備を重ねてきたのに。

情けなくて昼間からずっと涙が止まらない。

そんな私を目の前にして、両親は「またいつでも会えるじゃない」「気をつけてなかったあんたが悪い」「そんな泣くことちゃうやろ」「クリスマスでいいじゃない」と畳み掛けた。

「今一番辛いのは私なのになんでそんなこと言うんだ」、と泣き喚きながらリビングを出た。

「明日はやめとけ」とか「コロナじゃないか」とか言うくせに、火曜日にはケーキを食べさせようとしてるの、言動が矛盾しすぎてて、そんな両親のことを今は受け入れられそうになくて、そんな自分自身も嫌で、どこまでもどこまでも暗い一日。


彼は今頃TOEFLを受けている頃。

「明日行けそうにない、ごめんなさい」と言ったら、予約したフレンチのことも部屋のことも全部脇に置いて「それより体調大丈夫?」と彼は言うんだろう。


誕生日が13日だったらよかったのにな、
















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