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傷つけられたからといって、傷つけていいわけじゃないから


うまくいかないときや、悲しいときは、それを覆い隠すようにして、憂鬱を吹き飛ばすようにして、他の場所ではいつもの何倍も高いテンションでケラケラと笑ってしまう。

それでも治らないときは、すっと消えてひとりで過ごす。本屋に籠ったり、静かなカフェにいって甘いおいしいものを食べたり飲んだりして、自分を甘やかす。


不機嫌をそのまま八つ当たりで人にぶつけることができる人、怒りをそのまま相手にぶつけることができる人に、その無神経さがうらやましいと言いたくなることがある。

そういうとき、私は「ほんとうはあなたの何十倍も強い言葉であなたを一撃で傷つけることだってできる。だけど、あとから絶対に後悔するし、私はそんな人間になりたくないからしない。」と心の中で唱える。私の心に言い聞かせるようにして。



人とのやりとりで傷を負ったとき、あるいは負わせそうになったとき、私は怒ることよりも黙ることを優先し、その先で涙を流す。そしてそれは、なんでわかってくれないの!という怒りよりも、なんでわかりあえないの、という悲しみが胸を打つ。


大切な人と喧嘩をしたとき、突然くる理不尽な別れをみたとき、それが恋愛であれ、友情であれ、君に出会わなければこんな気持ち、知らずに済んだのに、と思う。

パリンッと音を立てたハートの欠片を、1枚1枚拾い上げて、ペタリ。ペタリ。と修復していく。何度も何度もボロボロになったハートを修復する小さな私は、修復した先に希望に溢れた笑顔があることを想像しようとするけれど、何度も繰り返されるうちに「ああ、またか。」と虚無の顔。


そしてついに、ハートの最後のピースが欠けたまま、なおすことができずにいる。私は君への怒りを、悲しみを、ほどけないまま。


あなたにとって偏見は、わたしにとっては、自分のこころを守るための小さな盾。

その盾は、小さなものだから完全に閉じることはない。それはあえてそうしてあって、隙間から覗き見て、わたしの恐れているものは本当に恐るるべきものかどうかを、よおく見極める。

見極めるの前の仮説を、少し話してみたくなることがある。私が見ているものは盾だと、虚像だと、偏見だと、そんなことは私もわかっているからこそ、そんなところを責めずにただ、「そうか。(きみはそう思うんだね)」と言ってくれさえすればいい。なにも言わなくてもいい。ただ、私が盾を放り出すための準備をしている様子を、傍観してくれさえばいい。


どんな盾だって、それを持たざるを得なかった背景がある。歴史がある。

偏見が偏見になるのは、それを本人に向けて、あるいは公共の電波に乗せて、ぶつけた時だ。それまでは、"自分に同調せよ"という押し付けがない限り、※これは個人の意見です、にすぎない。


正しさよりも優しさがほしいときだってあって、
どんな言葉よりもただ頷きさえあればいいときだってあって、自分の心情・考えよりさきに、その裏に潜む原体験に基づく背景を知ってほしいときだってある。


時には、正しさが優しさとなるときもあるけれど、今はそうじゃないということを、

ほんとうにわかってほしい人ほどわかってくれないのは、なんでなんでしょうか。


ヒトは、扁桃体で、快/不快という軸で、判断する原始的な習性を持っている。その快/不快に、必ず理由がなくてはいけないのでしょうか。

時に理性の力を取っ払って、原始的な判断結果を抱えていられなくなって、限られた人に伝えてしまうことさえもいけないのでしょうか。



こんなことを考えているから、いくら糖分をとっても疲れるのだろう。

こんなことを言っておきながら、怒りの対象を目の前にしてなにもなかったかのように振る舞われたら、私は許してしまうのだろう。


時折そんな私は、私自身であることにひどく疲れる。







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