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「志の田うどん」のルーツを探る

※少し前の記事の再掲です。なぜか消えていました……(´・ω・`)

濃くない名古屋めし「志の田うどん」

先日、東海テレビのニュースOne内のコーナー「こちら杉山探偵社」にて取材協力させて頂きました。

今回のテーマは「志の田うどん」。刻んだお揚げと大振りに切ったねぎ、そしてかまぼこが載ったシンプルなおうどんです。たとえばこんなかんじ。(名古屋錦「えびすやさん」にて撮影しました)

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名古屋で昔から営んでいるうどん屋さんならだいたい置いてある「名古屋めし」の一つ。拙著「でらうまカンタン!名古屋めしのレシピ」でも取り上げています。

志の田うどんの特徴は「①お揚げには味付けせず、つゆの中でさっと炊く」「②白しょうゆベースの『白つゆ』を使う」の2点。きつねうどんとは似て非なる、穏やかな味わいです。

そんな志の田うどんですが、実はルーツがはっきりしていません。発祥のお店も明確ではなく、いつ頃どのように広まったかの文献も残っていない状況です。

しかし、今回の取材協力をきっかけに自分なりに改めてルーツを探ってみたところ面白い事実が判明。それらを糸でつないでいくと一つの「仮説」が浮かび上がってきました。

番組でも一部触れて頂きましたが、新説「志の田うどんのルーツ」として改めてまとめてみたいと思います。

志の田うどんは大阪にもある!?

実は「しのだうどん」があるのは名古屋だけではありません。大阪のうどん屋さんにも「しのだうどん」があるそうです。

ただ、大阪のしのだうどんは名古屋の志の田うどんとは異なります。大阪のしのだうどんはこんな感じ。

そう、まるっきり「きつねうどん」なのです!

実は上でご紹介したうさみ亭マツバヤさんは、きつねうどんの発祥のお店と言われているお店。お揚げが1枚だと「きつね」、2枚になると「しのだ」になるそうです。

そしてここにこそ「しのだ」の名前の秘密が隠れています。

「しのだ」の名は浄瑠璃や歌舞伎などでも演じられる「葛の葉」の伝説から取ったものという説が有力。狐の妖怪である葛の葉が生まれた場所が「信太(しのだ)の森」だったので、狐のことを「しのだ」と呼ぶようになったとのことです。

ちなみに狐は稲荷神の使いであるので、「いなり」とも呼ばれるようになったようです。

お揚げ一枚なら「きつね」、お揚げ2枚で「しのだ」。なんとなくしゃれていますよね。「しのだうどん」という名前そのものはこのマツヤバさんがルーツとなっていそうです。

京都にあるのは「刻みきつね」

とはいえ、大阪の志の田うどんはあくまできつねうどんの派生系。チャーシューメンチャーシュートッピングならぬきつねうどんきつねトッピングです。揚げも煮しめてますし、つゆも普通のおうどんつゆ。名古屋の志の田うどんとは似て非なるものです。

しかし、大阪のお隣、京都に行くと志の田うどんに良く似たうどんがあるんです。それがこちら。

甘く煮付けていない刻んだお揚げとネギ。見れば見るほど志の田うどんそっくりな取り合わせです。京都らしくネギが九条ネギになっているところが違いでしょうか?

京都では甘く煮しめた一枚揚げのきつねうどんは「甘ぎつね」とよび、それとは別に煮しめていない揚げを刻んだ「きざみきつね」があり、単にきつねと言った場合にはこの「きざみきつね」のことを指す場合も多いそうです。

一説によると京都の「きざみきつね」は舞妓さんがおちょぼ口でも食べやすいようにという心遣いから生まれたとのこと。確かにきつねうどんの大きなお揚げは舞妓さんがかぶりつくにはちょっと大変そうですね。

新説・「志の田うどん」は「ハイブリッドうどん」

ということで再び名古屋の志の田うどんに戻ります。

ここまで見てきたとおり、志の田うどんの名前は大阪に、スタイルは京都にルーツが見出せそうです。

ということで、ここからは「たぶんこうだったんじゃないか劇場(まるしーチコちゃん)」。

時は明治から大正にかけての頃。きつねうどんが大阪で生まれると、それが京都に伝わって「きざみきつね」が登場します。

折しも人の行き来が活発になってきた頃、各地の美味しいご飯の話も伝わったことでしょう。やがて大阪や京都のそれぞれからきつねうどんが名古屋にも伝わってきます。

しかし、同じ「きつね」と呼ばれるうどんなのにスタイルが全然違う2つのものがあってはお客さんに分かりづらい。

そして当時のうどん屋の店主はひらめきました。

「そうだ、一枚の揚げが載った方を『きつね』と呼んで、もう片方の刻んだものは『しのだ』と呼ぶことにしよう! いや、せっかくだらか「志の田」の字を当てたらかっこいいんじゃないか!?」

かくして、名古屋の「志の田」うどんが誕生した。

あくまで仮説ではありますが、たぶんこんな感じだったんじゃないかなと思います。

ちなみに北陸では、刻みきつねスタイルのうどんは「いなりうどん」と呼ばれています。名古屋と北陸、違う方向に伝わった時に違う形にネーミングされたと考えれば、京都が刻みスタイルのルーツという傍証にはなりそうです。

ところで、志の田うどんのもう一つの特徴といえば「白つゆ」。これは大阪や京都のきつねうどんには無い特徴ですね。

京都から刻みきつねが伝わったとすると、なぜ「白つゆ」が使われるようになったのか? この答えの仮説は比較的単純な推理でいけそうです。

もともと名古屋のうどんにはたまり醤油をベースとした「赤つゆ」が基本。その後江戸後期に白しょうゆが発明されると、これをベースとした「白つゆ」が登場します。

濃厚な「赤つゆ」はおもにかけうどんに使われる一方、「白つゆ」は天ぷらうどんやたまごとじうどんと言った具材と一緒に楽しむうどん(いわゆる「種もの」)に使われるようになりました。白しょうゆのあっさりとした味わいは具材の邪魔をしづらいのが理由でしょう。

そこにきつねうどんや刻みきつねが西の方から伝来。その際上に具を載せるうどんという意味で「種もの」として扱われ、自然と「白つゆ」が使われるようになったのでしょう。

西から伝わってきた新しい食文化と名古屋の食文化が融合し、ハイブリットな名古屋めし「志の田うどん」が生まれた ―― これこそがSwindの考える志の田うどんの誕生物語です。

とはいえこの話はあくまでも仮説。裏付けはありません。とはいえ傍証を辿って行けば「たぶんこうだったんじゃないかな劇場」ぐらいには言えるのかなと思っています。

いずれにせよ、志の田うどんが昔から名古屋の食文化の中でしっかりと育ってきたのは間違いのない事実。名古屋育ちの立派な「名古屋めし」なのです。

おまけ:きつねうどんのルーツのルーツをたどると?

さてここからは余談。

志の田うどんのルーツと推定されるきつねうどんのことを調べていると、気になる記述を見つけました。

それはきつねうどんは「いなりずし」から生まれたという説。

往時のマツバヤの主人はもともと寿司屋で修行しており、そのお店ではいなりずしとともにうどんを出していたとのこと。そして独立した際にサービスでいなりの揚げだけをつけて出したら、お客さんが載せて食べはじめ、ここからきつねうどんが生まれたという説があるそうです。

じゃあ、いなりずしはどこで生まれたの?と調べてみると、諸説あるものの有力な説の一つに挙げられているのがなんと「尾張名古屋」。江戸よりは早く尾張名古屋でいなりずしが食べられていたと文献資料が残っています。

志の田うどんはきつねうどんがルーツ、そのきつねうどんはいなりずしがルーツ、いなりずしのルーツは尾張名古屋。

そう考えると、志の田うどんは「一周回って戻ってきた名古屋めし」といえるのかもしれませんね。









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