「どこか遠くに行きたい」を英訳した日
梅雨の季節、若しくは秋晴れの日は、どこか懐かしい気持ちになる。昔考えていたことが、スッと頭の中に入ってくる瞬間がある。
つい先日もそうだった。土砂降りの窓の外を見たときに何だか心地いい鬱屈さを覚えて。「あれこんなムズムズする気持ちどこかで……」って疑問に思っていたら、案の定昔も同じような感覚に陥っていた。
・・・・・・
中学三年生のとき、同じように窓の外を見ながら「どこか遠くに行きたい」と思っていた時期があった。「どこか遠くに行きたい」と思いながら、どこにも行けない現状とのギャップに閉塞感。だけどその閉塞感でさえ心地いいような、でもやっぱり心がむずむずと収まらないような……。
この感覚をスパッと言葉にしたい!それで僕は、かっこいい名言は大体英語ってことを思い出して、安直に文をそのまま英訳することにした。当時スマホを持っていなかったので、親にGoogleさんの英訳機能を貸してもらった。
「どこか遠くに行きたい」
I want to go somewhere far away
うーん……何か違うんだよなーーーーー。英訳としては正しいんだろうけど、何だか野暮ったい。10文字の文の英訳に7単語も要するのが原因だと思って、自分なりに英単語を省略してみることにした。
I want to go somewhere(どこか行きたい)
go somewhere far away (どっか遠くに行け)
go somewhere(どっか行け)
どれもピンと来ない。どの英単語も省略してしまうには意味を持ちすぎていて、一つ欠けると文そのものが大きく意味を変えてしまう。
その日はどうやらあきらめるしかないようだった。
・・・。
本当に一瞬間のひらめきだった。すぐに頭にしみこませて形にしなければ、瞬間消えてしまいそうなひらめきだった。「どこか遠くに行きたい」、この文は自分の中では率直な気持ちの言語化の帰結だと思っていたが、実はそうではなったのだ。
「どこか遠くに行きたい」、これは「今」という時の流れを固定させて発している言葉に過ぎない。完全に流れが止まっている中で見ている「どこか遠く」は永遠に遠く、自分との距離は縮まることがない。ここにむずむず高揚していくような感覚は湧きあがらないのは当然だった。
自分が時間に乗って旅していると仮定するなら、「どこか遠く」という地点は未来のどこかにあって、今が進んでいる間は着実に「どこか遠く」に向かって進んでいるのである。立ち止まって、一向に距離が縮まらない「どこか遠く」を見つめているのではない。自分も進みながら、近づいてくる「どこか遠く」を見つめているのである。途上にある、今も道の途中にいると、そういうことだった。
メモに記したただの6文字にゾクゾクする自分がいた。言葉で世界を広げることができた事件だった。
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