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【短編小説】何も無い夜のいくつかのステップ

 マグカップから立ちのぼるコーヒーの湯気を見ていると、自分がちっぽけな存在だと気づくのは古代ローマ帝国からの慣わしだろうか。
 とにかく労働をはじめてからと言うもの、メシに対する執着みたいなものを喪失してしまったなと思った。
 コーヒーにあわせて、オシャレなサンドイッチだとかハムと一緒になった目玉焼きだとかなんてのは学生時代のほんの一時期で終わってしまった。
 いま目の前にあるのは卵かけご飯に納得と言う日本人の10秒チャージ飯であり、労働者の嗜みの残滓、侘び寂びそのものであった。

 おれはその魯山人的な、または柳宗悦的な卓上の空間を認めながらコーヒーを飲み煙草を吸い散らかして労働意欲の減退を食い止める。
 音を消したテレビは酷いニュースをやっている。
 なんでも、ゴキジェットは進化を続けてゴキコンコルドになったらしい。
 音速を越える速さの殺虫剤でゴキブリは即死する事になったが、同時に家屋も破壊を免れないと言う事で生産は中止された。
 ただゴキコンコルドが生産中止になってから少しあとにゴキリニアが発表されたとのことだ。
 超伝導で射出される殺虫成分はゴキブリを確実に死に至らしめた。
 だがやはり家屋が無事では済まないと言う事で生産が中止になった、らしい。
 それの何がニュースなのかは分からない。
 おれたち視聴者次第だ。
 そう言う時代になってしまった。

 どうにか労働意欲の減退を食い止めたおれはどうにか家から這い出て職場へと向かう。
 だが家から出てしまえばこちらのものだ。
 職場に行くしかない。
 おれは毎日こうしてどうにか出勤している。ダメな時はダメだと割り切るのが重要だ。
 そして今日も正面から毛足の長い犬を連れたご婦人が見える。

 おれも犬が好きだ。大きくて毛むくじゃらの犬が好きだ。
 猫と違って従順で人懐っこいし、特に犬はしまりのない口元が良い。笑っているようにも見えるし、アホっぽい顔にも見える。
 それがたまらなくよい。
 特にゴールデンレトリーバーは良い。大きさもあるし、毛のふさふさ感も良いし、アホっぽさも人懐っこさもある。
 向こうからレトリーバーがかけてくる。
 可愛いやつめ。
 毎朝すれ違うおれを覚えたか?
 
 豊かな毛量と全身の躍動感、あの笑顔ともアホ面ともつかない表情。
 たまらない。
 こちらに向かって……大きくないか?あれ大きくないか?地響き……大きいよ、大き

***

世界から断然されました

***

 レジの待ち並びだと思っていたら全く別の、寿司コーナーに続く行列だった。
 別に寿司なんて欲しくも食べたくも無い気分だが、ここまで並んでしまったので今さら抜けるのも癪に触る。
 博物館に飾れるほどの見事な仏頂面でならびきり、カウンターで店員の女と相対した。
「じゃあこの海鮮太巻きをひとつください」
 おれは適当な太巻きを指差す。
 女はにっこりと笑って返す。
「それではお好みの海苔をお選びください」
 好みの海苔?そんなものがあるのか?そして選べるのか?
 旨いものを作ったのだから自信を持って欲しい。おれはお前たちが旨いと思うものを提供して欲しい。
 おれはその自負を信じて対価を払うんだ。
「お客さまの可能性を最大限に広げて参ります」
 女は笑う。
 そうか、おれの可能性はそこにあったのか。探したよ、若い頃はインドにでも行こうかと思ったくらいだ。
「有明海苔ですね。お好みのお米をお選びください」
 コメも選べるのか?
 炊き加減も?炊く水はさすがに選べないだろ。石釜、電気釜、土鍋……炊き方の指定までやる?正気か?

「かしこまりました。お嫌いな海鮮はございますか?」
 嫌いな海鮮は特にない。
 全く無いと言えば嘘だ。まだ食べたことのない海鮮はいくらでもある。
 そいつらの事まで愛せているかは知らない。嫌いな可能性だってある。
 だがそんなものをコンタミさせない、旨いものを食わせてくれるんだろう?

「かしこまりました。無料トッピングはおつけしますか?」
 無料トッピング……?
 サブウェイならハラペーニョとかオリーブがそうだろう。
 太巻き寿司なら紅ショウガとガリとラッキョウあたりか?
 要らない。何も。そのまま出してくれ。
「かしこまりました。ご一緒にホタテはいかがですか?」
 要らない。
 いや、カニ味噌があるなら少しつけて欲しい。

 ようやく寿司コーナーの行列を出てスーパーのレジに待ち並ぶ。
 はやいところキャッシュレス決済を導入した方が良さそうだ。
 店を出るまでに夜が明けそうに見える。
 おれは労働者から何に進化できるのだろう?
 何でもいい、おれにはジェットが無いからな。

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