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ペンギン図鑑 【ショートショート】

私はまったくのうわの空だった。
目の前にいる上司の言葉は、
右から左へ通り抜けていく風と同じだった。
私はただ、
上司のシャツに散らばるペンギンを数えていた。
上を向いたり下を向いたり、
斜めに傾いたりするペンギンの絵柄を
目で捕まえては、
私の架空の籠の中に
ひょいひょい放り込んでいく。
十六羽目、捕獲。
ああもう少し腕を上げてくれれば、
次の一羽を捕まえられるのに。

「ねえきみ、僕の話、聞いてる?」

はっとしてシャツから目を上げると、
じゅっと音がしそうなほどに
上司は私を見据えていた。
南極の氷に空いた穴のような目をしている。

なんの話だったかな、と
私は慌てて逡巡する。
たしか、新年度の売り上げ目標がどうとか、
そんな話だった気がする。

「きみは先ほどからずっと
僕のシャツにばかり注目していたようだね。
ペンギンが好きなのかい?」

「いえ、あの、ペンギンは、まあ、好きです」

上司の視線がヒリヒリと私を燻すものだから、
私は心で冷や汗をかきながら
適当な答えかたをした。

「ほう。
それならもっといいものを見せてあげよう」

上司は私に焦点を合わせたまま、
袖口のボタンを外し始めた。
椅子の座面が汗で腿に張りつき、
私は身動きがとれなくなっていた。
上司が袖をサッとまくり上げると、
硬い筋肉で覆われた浅黒い腕が露わになった。
鍛え上げられた太い腕は、
それ自体が意志をもっているかのようだった。
そういえば上司は学生時代、
テニスをやっていたと聞いた。
国体にも二度出場したことがあると
自慢げに話していた姿を思い出した。

さあご覧。
と言わんばかりにこちらに差し出した腕のうえで、
何かが動いている。
私はずり落ちた眼鏡をきちんと掛け直して、
上司の腕を見た。
そこには無数のペンギンのタトゥーが
彫られていた。
あるものは口を開けて天を仰ぎ、
あるものは自分の足の間に嘴を向けていた。
またあるものは這いつくばり、
別のものは海を目指して行進する時の様に
ステップを踏んでいた。
種類も様々に、前腕から二の腕、
おそらくは肩の上まで、
びっしりとペンギンが描かれいた。
しかもそれらは鳴き声を発しているのだった。
それぞれが威嚇したり、
カラカラと笑うような声を出したり、
とにかくうるさい。
私の口の中は乾き、呼吸が苦しくなった。
動悸を鎮める方法などない。
それでもこのペンギンたちから目を離すことが
できなくなっていた。

「ペンギンの卵を見たことがある?」

上司は自分の腕に描かれた一羽の皇帝ペンギンを
指し示し、その足の間にボールペンの先で
洋梨型の卵を書き足した。

「皇帝ペンギンは、オスが卵を温めるんだ。
飲まず食わずで六十日間、
卵を足の上に乗せて温め続ける。
きみにそんなことができるかい?」

私にできるわけがない。
だいいち私はペンギンではないのだ。
上司が卵を書き加えたペンギンが
オスなのかメスなのか、
私にはまったくわからなかった。
しかし、
オスの足の上で卵を温めるというのだから、
このペンギンはオスなのだろう。

今度は上司の肘の近くで、
コツコツという小さな音が聞こえた。

「そろそろ生まれるか」

私が上司の肘を見てみると、
卵のタトゥーの割れ目から嘴が覗いていた。
雛が不器用に内側から殻を小突き、
なんとか外の世界へ這い出そうともがいていた。
私は何がなんだかわからないなりにも、
拳を強く握りしめて
ペンギンの赤ん坊を応援していた。
がんばれ、あと少し。
やがて灰色の羽毛に包まれた
ほわほわの小さなペンギンが腕の上に現れ、
ほっとした。
温かい気持ちにさえなった。

「どうだい。可愛いだろう」

上司は愛おしそうに
自分の肘で生まれたペンギンの子を見つめ、
指の腹でそっと撫でた。

それから一時間ほどかけて、
上司は腕に彫られたペンギンの種類や特徴、
生態などを私にみっちりと語った。
上司の腕に彫られたタトゥーのペンギンは、
全部で十三種類だった。

コウテイペンギン
キングペンギン
アデリーペンギン
ジェンツーペンギン
ガラパコスペンギン
ケープペンギン
フンボルトペンギン
マゼランペンギン
イワトビペンギン
コガタペンギン
フィヨルドランドペンギン
マカロニペンギン
ロイヤルペンギン

それでもまだ彫られていないものが
五種類ほどあるのだという。

「いつかきっと、
まだ見ぬ彼らが僕の腕の中に
飛び込んできてくれる日が来ると
信じているよ」

こんなことがあるものかと思っていた私だったが、次第にこのペンギンたちに惹かれていった。
デスクのこちら側にいる私のことを、
艶のある黒目で
興味深そうに見つめてくるペンギンもいた。
愛嬌のある仕草や、
午後の日差しに目を細めている顔を見ていると、
私の心は和んだ。
気づくと夕陽が部屋の窓から入り込み、
あたりをオレンジ色に染めていた。
上司の腕のペンギンたちにも西陽が当たり、
眠たげにしているものたちで溢れた。
オフィスの終業のチャイムが鳴る。

すると、
それまでうとうととしていたペンギンたちは
一斉に目を見開き、

「ウリアゲ達成!ウリアゲ達成!」

と叫び出した。

鼓膜がじんじんする様な大声で、
ぎゃあぎゃあきいきい、
ウリアゲ達成!と口々に連呼する。
それがこのペンギンたちの
本来の鳴き声であるらしかった。

「この子たちの大好物は売り上げなんだよ」

暴れるペンギンたちをなだめながら、
上司は袖を下ろし、ボタンをとめた。
すると部屋の中がぱたりと静かになった。
私がこの部屋に来る前よりももっと、
静けさは深く濃くなったようだった。

「可愛い赤ん坊をきみも見ただろう?
あの子たちが大きくなるためにも
ウリアゲという栄養が必要なのだ。
僕のためじゃない。
会社のためなんかでもない。
このペンギンたちのためなんだよ。
きみには地球環境や生態系を守る義務がある。
せいぜい頑張ってくれよな」

そう言うと上司はジャケットを羽織り、
何事もなかったかのように
背筋を伸ばしてドアの外へ出ていった。
上司の靴音が廊下に反響しているのが、
私の耳に届いた。

私はひとり部屋に残り、
椅子に座ったまま溜息をついた。
うわの空だった三時間前のことが、
遠い昔のことのように思えた。
人心掌握に長けた人物だと噂されている
上司の背中は、自信に満ちていた。
私は上司の陰の仇名の意味を理解した。

ところで、
なんの話で上司に呼ばれたのだったかな。
新年度の売り上げ目標を達成するための話?
いや、地球環境や生態系の話だった?

見上げた部屋の上空で、
暗いオゾンホールがぽかりと口を開けていた。


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