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ファンタジーの世界がすきだから

ひらいて、その世界に入りこめば、私たちはどこへだって行ける。 
私が本を読む理由は、小さなころからずっと、それに尽きます。

お話を自分でも書くようになってから、読むだけじゃないわくわくを感じられるように変わってきて、自分の言葉がどういうものなのか、少しだけ輪郭を捉えられた気もします。
むずかしいことは、あまり好きではないです。柔らかくて分かりやすく、じっくりと煮込まれた言葉がちょうどいい。ごはんの描写を書くことがすごく好きなのですが、心が温まる言葉選びをすると、自分もお腹が空いてくるから不思議ですね。

人生、できることにはどれくらい限りがあるのでしょうか。可能性を狭めてしまうにはきっと若すぎる年齢だけど、多分わたしはダンスのうまいスーパー少女になることはできないし、格好いいキャリアウーマンになることも自分の人生では、できないと思います。
ただ、小説のなかでなら、言葉のなかでなら簡単にそれができる。わたしができなくても、わたしが生み出した誰かがそれをのびのびとしてくれる。目の前には紙しかないのに、文字しかないのに。
わたしや誰かが言葉を並べれば、本来出逢うチャンスすらなかった別の世界の誰かと顔を合わせて、笑い合うことができるのです。

同じ言葉を使っていても、使いかたに、人となりがあらわれる。私は日本語が好きです。繊細な表現ができること、やわらかい言い回しができること、情緒溢れる色の名前にときめけること、そのどれも素敵でとても気にいっています。反面、汚い言葉はあまり自分にも、他人にも向けたくありません。その分激しいことは書けないのが難点だけれど、私は私の使い方で言葉を、日本語を使うから、じゅうぶん幸せな使い方で文字を書けているんじゃないかと思います。

ときとして刃物に、凶器にもなりうると言われるもの。今日はあまり過去の話はしないようにと思っていましたが、1つだけ過去の話をすると、刃物だらけの空間に放り込まれていたこともありました。いま、渦中のひともいると思うし、インターネットでは誰しもに言葉のナイフが突き立てられる機会があっておかしくありません。

もっと優しい世界がよかったと嘆く夜が、これを読んでくださっている誰かにもきっと、あるかもしれない。わたしは偉そうなことも、大層な自己啓発も、小難しい成功論もひとつだって言葉にはできないけど、誰かの心の傷ついたところをほんのちょっとだけ貼り合わせて、抱きしめるような文章を書きたいです。

読んでくださって、ありがとうございました。

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