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私は母が宗教に熱心な宗教2世。

安倍さんの事件以来、ずっと気持ちが鬱々としていた。それは、私も宗教2世だからだ。
私の母は宗教に熱心だ。
統一教会ではないし、仏教の教えを学ぶ伝統ある宗教団体で、世間的には全く問題のない宗教ではあるのだけれど…。

私も小さい頃はよくその宗教の集まりやイベントに連れられたり参加したりしていた。
しかし、母が家の事をおざなりにして宗教の活動に熱心なのに嫌になり、年齢を重ねるうちに活動に参加することを拒否し始めた。

姉も兄もそうだった。
父も、子ども達が小さいうちは一緒に参加していたようだが、今では全く関わったり参加していない。

母以外の家族は、その宗教については否定的なのである。

その宗教の教えが悪いとかではない。
母が、家のことより、家族のことより、宗教の方が大事なのではないかと思うことが多々あり、子どもの頃の私は(きっと姉も兄も父も)とても寂しかったのだ。

仕事なら家の事がおざなりになってしまっていても仕方ないと思えたかも知れない。
けれど、宗教活動はお金がもらえるわけではない。自由で、参加しなくても所属しなくてもいいものなのに。

なので、子どもの頃、家事を手伝うことがとても嫌だった。
休日、母が宗教活動で帰宅するのがお昼過ぎになる時、お昼ご飯をお願いね、と頼まれるのも嫌だった。
お菓子や料理を作るのは好きだったけど、母が宗教活動に行ってる間に、母の代わりに作らなければならないのが辛かった。

母はパートをしていた時もあったけど、専業主婦の期間も長かった。
だから、何で母が宗教活動をしに行ってる間、代わりに家事をやらなければならないんだ、と、怒りと悲しみの気持ちになった。

母は掃除はマメにしないけれど、お経はマメに読んでいた。それも嫌だった。
お経読むなら掃除してよ…
片付けしてよ…と思っていた。

掃除や衛生的に保つのは苦手な人だと思う。
それに、時間の見積もりが下手だから、いつも出かける間際にバタバタと走り回って慌てて出て行くことも多々。
家を出る直前に「カギがない!」と探し回る何度も見た。
自分もせかせかと落ち着きがなかったが、私達も常に急かされていた気がする。
(後に姉と、母は絶対にADHDだということに気付いた)

習い事のお迎えはいつも遅れてくる。
暗い中母が来るのを待つのは心細かったし、それで怒ってしまったこともあった。
私が怒ると、母は逆ギレして私を車から降ろしたこともあった。

また、小学4年生くらいの時、家に帰っても母の姿はなく、そのうちに大きな雷が鳴り始め、怖くて怖くて1人で泣いて母の帰りを待ったこともあった。

カギがなくて、家に入れなくて、家の外で母の帰りを待たなければならないことも何度もあった。

姉も、小学生の頃、母がそろばんの迎えに来なくて2時間くらい待ったことがあるという。
(私は田舎に住んでいたため小学校までは徒歩1時間かかっていた。なので習い事の日は暗くなってしまうと危ないため迎えに来てもらっていた。)
迎えに遅くなった理由は、宗教の活動だった。

携帯もない時代。暗くなっていく中、小学生の女の子が1人、母を待つ気持ちを想像するととても辛い。
姉はその時の辛い気持ちを未だに引きずっているようだった。

習い事の時には、家が遠くない子達も基本的に親が車で迎えに来てくれていた。
皆が次々に迎えに来る中(むしろだいたいの親は習い事が終わる前に迎えに来て待機していた)、1人取り残されたことは私も何度もあったため、姉の気持ちは痛いほど分かる。


それに加えて、私達が小中学生の頃、ちょうど地下鉄サリン事件があったり、おかしな宗教が事件を起こしていた。
そのため、世の中の雰囲気が宗教に対して偏見があるのを感じていた。

何の宗教かではなく、宗教に入っているということがもうヤバイ人、という感じがあり(実際私もそう感じていた)、母が宗教に熱心なことは友達には内緒にしていた。

仲の良い友達にもバレないようにしていたし、何か隠し事をしなければならないという罪悪感が常に付き纏っていた。




今も母は相変わらず宗教に熱心だ。
母は家庭の平和、世界の平和のために仏教を学んでいるつもりらしい。
そして、癒やしの場とも言っていた。

そして、今回の安倍さんの事件、統一教会のニュースが流れる度に、母は自分が宗教をやっていることで家族が嫌悪していることを棚に上げて(というか気付いていないのか)、「こんなんじゃダメ」「統一教会がまだこんなことをしていたなんて」等とコメントをしている。

その度に私はとても複雑で辛い気持ちになってしまう。
そして母に対しての怒りもわいてきてしまう。

母が宗教活動のために外出する時、気持ち良く「いってらっしゃい」と言えない自分がいる。


少し前まで、というか、今年の4月から実家に戻る時まで(3月までは都内でひとり暮らしをしていた)、自分はようやく少し母に対して理解ができ、宗教のことも少しずつ許せるようになってきたと思っていた。
母も、ADHDという性質を持っている上、3人の子どもをほぼワンオペでこなしていたため、(しかも姉はかなりの多動児だったらしい)疲れ果てて何かにすがりたくなるのも自然だ、と。
すがれる場所があって、まだ良かったのかも知れない、と。

しかし、今回の件で、まだまだ私は母に対して許せていない自分がいることを思い知った。
過去の悲しい気持ち、辛い気持ち、寂しい気持ちがありありと蘇ってくる。

統一教会の事に関してコメントする母に、何度も「お母さんだって家族や家のことより宗教が1番だったし今もそうじゃん。それで皆嫌な思いとか寂しい思いたくさんしてきたんだよ。」と言ってしまいたくなる。
言ってしまったほうがいいのだろうか。

母の1番の生きがい、人との繋がりができる宗教を否定していいのだろうか。
葛藤がすごい。


こんなひどい言い方じゃなく、落ち着いている時に母にはいつか本音を話したいとずっと思っていた。
2人で旅行にでも行って、とか。
父が飲み会でいない二人きりの夜、とか。

けれど、今は私の気持ちが荒れてしまっているため、その話をしても落ち着いて話せないと思っている。

母にひどい言葉をたくさん吐いてしまいそうで。


お昼ご飯を食べる時、父と母は必ずニュースを見ながら食べる。
そうすると必ず統一教会のニュースになる。

母がコメントすると、父は否定的なコメントを返す。私は苦しくなる。

なので、その場には居合わせないようにお昼ご飯はいらないと言って、自分の部屋で適当に食べるようにしてその場から逃げている。
たまに外出をして外で食べている。

地元には友達がいるから、友達に会えたり遊べたり、ここ数ヶ月、出産ラッシュだったから友達の赤ちゃんに会いに行ってくる、と外出の言い訳がしやすいのはありがたい。

今は距離をとるしか自分の心を守れない気がする。


安倍さんを殺したことは、どんな理由があっても何があっても許されないことだ。

けれど、私はその人がずっと辛く、寂しく、悲しい気持ちを引きずり、膨らましながら歳を重ねていたことを想像すると泣きそうになってしまう。

それは自分の姿と重なるところがあるからだろう。

戦争も宗教が発端なことが多いという。
何かを盲信するということは、それ以外を排除、否定することに繋がる。

私は宗教を否定したい訳ではない。
素晴らしい教えもたくさんあるし、宗教によって自分の生活を豊かにしている人もいるのだと思う。

けれど、宗教2世である辛さを抱えている人も本当にたくさんいると思う。

私より大変で辛い思いをした人もたくさん。


私はこの気持ちをどうすればいいのか分からない。
今はここに書くことで少しだけ昇華できるのではないか、と少しの希望を込めて書いている。

宗教に関係なく育った人達が羨ましくてたまらない。
普通の家庭で普通に育ちたかった。
悲しかった。辛かった。嫌だった。

お母さんに宗教活動なんかするより家にいて欲しかった。


思い出すのはとても辛いけれど、今は思い出して、グルグルと混ぜて混ぜて、混ぜまくることが必要なのかも知れない。

グルグルと混ぜた先はどうなるか分からないけれど。

私は私の本当の気持ち、心を大切にしたいから。自分の感じていること、感じたことを絶対に否定しないようにしよう。

それが今できることなのかな。


私は私を守る。
私は私の人生を生きる。

母と私は家族ではあるけど全く別の人。

私は私を幸せにする。





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