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1970s
令和の時代も気がつけば、4年目に到達した。平成から令和の移り変わりはなんとも不思議な心持ちだったことが懐かしく思える。そんな令和の時代に改めて、平成を超え、昭和、とりわけ70年代という時代のカルチャーについて、私の服案を広げる。
結論から話そう。
「70年代とは、闇を描いた時代である」
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優秀な科学者にしてオートレーサーの大学生・本郷猛は、世界征服を企てる悪の秘密結社・ショッカーに捕われてしまう。本郷の能力に着目していたショッカーは、アジトで1週間かけて彼をバッタの能力を持つ改造人間に改造した。しかし、本郷は脳改造やゆされる寸前、ショッカーに協力させられていた恩師・緑川博士に助けられてアジトから脱出する。以降、仮面ライダーとなった本郷は、ショッカーが送り出す怪人たちを次々に倒していく。
これは、1971年から放映が始まった『仮面ライダー』の大まかなストーリーだ。ショッカーとは、言わずもがな世界征服を企む悪の組織である。上記のストーリーからもわかるように、仮面ライダーは、闇(悪)から誕生した光(正義)なのだ。光(正義)と闇(悪)が表裏一体にある、宗教的思想がバッググラウンドにあることに、子供向け番組か?といった感覚を覚えるのは私だけではないはずだ。
さらに、仮面ライダーでは、ショッカーライダーという悪のヒーローが登場する。こうしたカウンターの連続は、さすが石ノ森章太郎と言わざるをえない。
ここで、私見を話そう。
この時代の表現者というのは、基本的に、戦争体験者であるため、光と闇が表裏一体であるかのような様相を描くという考察だ。つまり、当時の日本人にとって正義であった行為が、戦後からの価値観では(絶対的)悪へと変遷したため、それが一種の表現方法として現れているのではないだろうか。
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当時の作品には、人間の闇を描いた作品も多い。その最たる例が漫画版『デビルマン』であろう。
デビルマンとは、『週刊少年マガジン』の1972年25号(6月11日号)から1973年27号(6月24日号)にかけて全53話で連載された永井豪の作品(というか怪作)である。この作品は、当時の流行だった「終末論」があるためか、暗く、人間の業がこれでもかと詰め込まれている。前半はホラー色の強い異色のヒーロー漫画という趣だったが、中盤から物語は一気にスケールアップ、人間を超える者による最終戦争という黙示録的な結末を迎えるのだ。
そもそもデビルマンは、変身ヒーローもの企画として、永井豪が自作品『魔王ダンテ』(「ぼくらマガジン」連載)をベースに「悪魔をヒーローとした作品」として基本設定を行ったものだ。まさに、闇のイメージから創られたような作品である。
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社会への意見や体制への反抗を表現するものであった社会派フォークが、安保闘争の挫折などを経て、政治とは関係ない私的生活や個人の心情を扱うものへと流れた。四畳半フォークは、そうした流れの中で生まれた。
「四畳半フォーク」という言葉は、松任谷由実(当時は荒井由実)が作ったとされる。ユーミンのアヴァンギャルドな音楽性と対照的なフォークミュージックに対して、これでもかと皮肉が込められているのがわかるだろう。
だが、私はこうした暗く、陰鬱とした当時のフォークが大好きである。金なし風呂なし三畳一間の世界からの脱出、貧乏でも希望に満ち溢れた男女の生活を描いた歌に、恍惚感を得られるのだ。
暗くて貧乏くさい情感を日本語で赤裸々に歌うことが小っ恥ずかしく感じるのもわかる。だが、私の好きな三島由紀夫もつげ義春も寺山修司も人間の闇の暗い部分をこれでもかとオープンに表現している。裏を返せば、一種の闇(暗く痛々しい部分)を描いた作品の方が、わかりやすく明るい作品より断然惹かれてしまうのだ。
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皆様は「チークタイム」という言葉をご存知だろうか?
チークタイムとは、70年代から80年代のディスコシーンにおける、スロウなナンバーで、男女がチークダンスを踊る時間を指す言葉である。
チークダンスを翻訳すると、「頬を寄せ合って踊るダンス」になるが、光のない状態(闇)で、チークダンスを踊る男女は、どこが浮世離れした感覚で、エロティシズム的であると私は思う。特に、見えない闇の中に浮かぶ女性像というのが、藝術作品のようにも感じられるのだ。
このような素敵な文化も、80年代半ばあたりから消失したそうだ。
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現代人は、抽象的かつ主観的な物事に対して、どうも否定的であるように思える。こうした考えがSNSでも散見される、オタクVSフェミニストひいては、表現の自由VS性の商品化に繋がるのであろう。
どこか掴みどころないもの(説明のないもの)に、豊かな感受性、自身の想像力で補うといった行為を、現代人は放棄していないか?最近の映画やドラマがやたらと説明が多すぎるのも、1つのファクターであろう。不明瞭なところを無くすために、注釈をつけ、人間の考える能力を奪っているのだ。
自分が理解できないものに対して、「わからないもの=公共に反したもの」と決めつける文化が成り立ちつつある現代。このままでは、表現が衰退してゆく一方である。そんな時代を生きる我々は、もう一度、闇を描いた時代に立ち返るべきではなかろうか。
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