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私の親って毒親だったんだ…

この事実に気づいたときに受けたショックは
人生で一番の衝撃でした……


このnoteは
毒親アダルトチルドレンなど
親に悩まされてきた過去があり
今も苦しんでいる方に向けて

同じく毒親育ちの私
どんな苦しい半生を送ってきたのか

そしてそれをどう乗り越えていったのか
お伝えしたいと思い作成ました。

これは自分の親が毒親
自分自身がアダルトチルドレンかもしれないと気づき
今まさに生きづらさを感じている人が

少しでも心救われ
解決の糸口になることを願い作成したので
少し長めのnoteになっています。

本当は【有料級】の内容ですが
多くの毒親で悩まれている方
お役に立ちたいので【無料公開】にしました。

自分の親が毒親だったり
自分がアダルトチルドレンに該当すると思う方は
ぜひ最後までご覧くださいね。

今から
私と母の関係性や
毒親やアダルトチルドレンで悩んでいる人の親子の関係性を
数百人きいてきたデータを元に
私がオリジナルで作った
30項目のリスト
を下記に載せます。

これは当てはまるなと思うものがあるか
チェックしながら読んでみてください。

【毒親育ちリスト30】
1.親が過干渉だった
2.親は何でも先回りしてお世話をしてきた
3.親に何でも決められた
4.親の敷いたレールに乗ってきた
5.指示命令ばかりされた
6.大きくなっても服装や髪型に口出しされた
7.友だち関係に介入してきた
8.引き出しを開けて手紙を読む、ノックせずに部屋に入るなどプライベートは無視された
9.進路など上手に誘導された
10.成人してもずっと子ども扱いされる
11.親の口癖は「あなたのために」
12.親は子育てを頑張ったと自負している
13.親は自分のことをいい人・いい親だと思っている
14.大人になり「こうしてほしかった」「こうしてほしくなかった」と訴えても気持ちを汲み取ってもらえなかった
むしろ親は「私は精一杯子育てしたんだ」と自己弁護する
15.親は子どもの気持ちに共感する・子どもの気持ちに寄り添うのが下手
16.「お前は〇〇だからいけない・〇〇だからダメ」など頻繁に決めつけられた
17.何かと否定された
18.自分の意見は聞いてもらえなかった
19.訴えても3倍になってはね返された
20.いつしか自分の気持ちはどうせきいてもらえないと思うようになった
21.自分で考える力が育たなかった
22.自分がないと言われる
23.素直
24.だまされやすい
25.自分で考える力が乏しいのですぐ人の判断をあおぐ
26.人の目、人の評価が異様に気になる
27.八方美人
28.依存心が強い
29.自己肯定感が低い
30.子育てがうまくできない

あなたはどれくらい当てはまりましたか?

7割以上は該当すると思う方は
毒親育ちだと思っていただいていいので
以下の話を読みながら
自分の子ども時代も照らし合わせて
読み進めてみてくださいね。

母にコントロールされ続けた半生と母から離れることに成功した軌跡

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ここからは私が母にコントロールされ続けた半生
そして母から精神的にも物理的にも離れることに成功した軌跡
お伝えさせてくださいね。

私は19歳のとき初めてうつ病になったことを機に

39歳までの間にうつ病を3回
3年間の引きこもり生活
数回に及ぶ自殺未遂
離婚危機
子育てで虐待まがいのことをしてしまう…

など20年の間に多くの辛い出来事を経験しました。

私はその原因を

ネガティブ
メンタルが弱く
物事を悪く考えるマイナス思考
自己否定・自己嫌悪ばかりする

そんな自分の性格が悪いから
辛い出来事が起きるんだ
20年間ずっと自分を責め続けていました


そしてそんな自分を
もうこんな自分嫌だ!!
こんな自分大嫌い!!と
心から感じた39歳の時
恩師の心理カウンセラーmasaさん
出会うことができ、

そこからやっと
自分の人生がどうしてこんなにも辛かったのか
私の生きづらさの原因はなんだったのか

知ることができるようになりました。

私は約40年間
からまりにからまっていた多くの糸を
一本一本ほどいてくように

masaさんの力を借りて
心と人生を整えていくことが出来るようになったのです。


子ども時代の育てられ方

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私は1979年生まれで、幼少期、
1951年生まれの母と、
婿養子となった父、3つ上の兄、
母方の祖父母の6人で暮らしていました。

私は子ども時代から色々な欲求に乏しい子で
〇〇に熱中した、という記憶がほとんどないほど
様々なことに興味の薄い子どもでした。

小学生時代を振り返ると特に思い出されるのは
頻繁に泣いている自分です。

訴えても聞き入れてもらえないのは当たり前で
泣き声にイライラした母

押入れの上の段に
しょっちゅう入れられました。

本来なら抵抗する20キロ以上ある小学生を
よく入れられたなぁと感じると思いますが

それだけ私は
母には抵抗できないと心が支配されていたのでしょう。

いつも簡単に入れられていました。

小学3年生の頃でしょうか。
友だちにからかわれて嫌だった気持ちを
泣いて母に話したことがあります。

その時私は「それは嫌だったね。辛かったね」
などの共感の言葉をもらえることを
期待していました。

けれどそのとき返ってきた言葉は
「気にしんとき」
でした。

今なら共感が苦手な母らしい慰めのセリフとわかるのですが
まだ小学生だった私は
母のことがよく理解できず

ただ分かってもらえなくて悲しい気持ち、
もうこの人には話したくないという反発した気持ちを
感じただけでした。


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過干渉な母は髪型服装に口出しするのは日常茶飯事
6年生になっても母の言われた通りの髪型をしていた記憶があります。

服は「あんたはセンスがないから」という言葉で私を縛り
大きくなっても私の服を選び続けました。

その結果私は今も服を選ぶのが下手です。

中学校は5つの小学校が集まって出来ていたので
友だち付き合いの範囲が広がったのですが
その交友関係にも母は介入してきました。

私の成績が下がりはじめると
よくないお友だちと付き合っているからだと
上手に縁を切る方向に持っていったのです。

その方法は私を塾に入れさせ
遊ぶ頻度を減らさせるというものです。

母の思惑通り
塾の成績が伸びるのが楽しくなっていった私は、
勉強することに夢中になり
いつしかその子たちとの縁は薄くなっていきました。

高校に入り
引き出しに入れておいた
友だちとのやりとりの手紙を読まれることがあったときは
愕然としました。

好きな人のことを書いた手紙でした。
私にはプライベートはありませんでした。


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高校3年生で進路を選ぶときは、
自分のことではなく同居していた祖母の話を出して誘導してきました。

祖母は看護師免許を持つ
小中学校の養護教諭だったので

「血を見るのはいややろ?だから学校の先生になり」

と教育学部のある地元の国立を第一志望にするように
話をもってきました。

大学に入りやりたいことがあったわけでもない私は
「国立なら親孝行になるし」
くらいの気持ちで母の提案を素直に受け入れました。

早く親から離れたいと感じていた高校の同級生のお友だちは

親に悟られないようにうまく離れるチャンスは
遠くの大学を選ぶことだと考え、
親には学びたい大学は他県にしかないからと説得し
上手に親から離れていきました。

私はその計画を聞き
そんな友だちを尊敬はしても、

母に依存して生きるマインドで育っていたので、
自分だったらなど置き換えて考えることは1ミリもできませんでした。


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大学に合格し、親子で喜んでいたのも束の間
私は大学に入ってすぐの5月頃から人とうまく話せなくなり、
早朝に覚醒してしまうなどのうつ病の症状を出し始めました。

初めての精神疾患と、母的には順調に育っていた娘が
廃人のように眠り続け
いつ治るかもわからない状態に母はパニックになりました。

その後休学を経てうつ病から回復していき
母も落ち着いていきました。

はじめてのうつ病は2回目3回目のうつ病と違い
これといった原因が思い当たらず
いきなり訪れました。

けれど私がそれまでの人生で
自覚がないまま
我慢や支配を受け入れていった結果

「もう疲れたよ…」

という心の底からの悲鳴
体と心にうつ症状をもたらしたのかもしれないなと
感じています。

大学3年生のときの教育実習では、
「私には教師は無理!」
と悟ることができたので

私は運良く母の思惑から外れた道
歩むことができました。

けれどこの違和感を感じなければ
そのまま学校の先生になり、
どこかでつまずいたときに、
母が先生になるように言ったからだと
きっと母のせいにしただろうな…
と容易に想像がつきます。


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このように私は
ずっと母の敷いたレールに乗って生きてきました。

そしてそれは実家暮らしをしていたときだけに
終わりませんでした。

26歳で結婚して家を出ても
母の干渉は続きました。

上手に言い含められた私は
結婚後も実家の側にあるアパートを
借りて暮らしていたのですが

母は
手料理を作っては運び、
自宅の畑でできた野菜を運び、
頻繁に顔を合わせてきました。

ただ一緒に暮らしいていないというだけで、
私を子ども扱いする態度
私の生活を把握する態度は変わらず続きました。


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同級生の夫の両親は全く連絡をしてこないのに
その100倍
私の母は連絡をしてきました。

夫の両親には結婚後
過保護・過干渉すぎる母の態度に
私自身が気づいていないことを驚かれました。

結婚後しばらくして3年間の引きこもり生活にもつながった
うつ病になったときは
心配した母が頻繁にやってきました。

私は19歳
20代の後半の3年間
39歳のとき
の合計3回うつ病になったのですが

うつ病になると
こうなったのは私をこんな風に育てた母のせいだと
心の中でいつも母を責めました…。

それを訴えたこともあります。
けれど訴えがききいれられることは
ありませんでした…。


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2年半の不妊治療を経て
結婚8年目に待望の第一子を授かってからは

子育てでは
3年間のうつ病引きこもり生活とは
また違った苦しみを味わいました。

私はどうして子育てがうまくできないのか
どうしてこんなにも子育てを苦しく感じてしまうのか

ずっとわからず

我が子が泣くたびに
自分の中の何かが刺激され
スイッチが押されたように
衝動を抑えられなかったり
爆発を抑えられなかったりしました…。

今なら

自分が毒親育ちなため
体は大人でも心は子どものままの
アダルトチルドレンで

インナーチャイルドが癒やされていないままの子育てでは
インナーチャイルドが怒りや悲しみを訴えてきて
うまくいかなかった
ことがわかります。

特に私は母に泣くことをずっと否定されてきたので
私の中の小さな私が
辛かった気持ちを訴えていたのでしょう。

子どもたちの泣き声を聞くと
イライラは止まらず


【私は押入れに入れられたのに…!せこい…!辛い!】

苦しさは増大しました。

泣き止まない我が子をどうにかしたくて
手をあげたこともあります…。

そしてそんな衝動に出てしまう自分を
責めに責め

子育て中
もともと低い自己肯定感はどん底になりました…。

こんな子育てしかできない自分を
いつも責め

私が育てたら
子どもたちも自己肯定感が低くしか育たない…。

逃げ出したい…。
投げ出したい…。
と何度も感じ
自分を追い詰めていった結果

39歳のときには
3度目のうつ病を発症しました。

その後奇跡的にmasaさんに出会うことができ
わたしの苦しすぎた半生は終止符を打つのですが

その後自分をどうやって変えていけたのかは
noteの後半でお伝えしますね。


母の特徴と毒親育ちなため形成された人格

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ここからは母の特徴
私が毒親育ちなゆえに
形成された人格
などについて
お話したいと思います。

母はおしゃべりで、人の意見はきかないけれど
自分の意見は押し通す人でした。

私はありとあらゆる場面で
否定されてきた
のですが
それらは

イライラをぶつけてきたときもあれば
全く悪気はなく言ってくるとき
さまざまでした。

たちが悪いのは、母は私に
悪いことをしている・悪いことをしてきた
という意識が全くない
ことです。

子どもの心は柔らかく
言われた言葉を

きれいに吸収してしまいます。

今の言葉傷つけたかな?
気付ける親は、あとで、さっきはごめんね
などと言えると思いますが

私の場合は
私の気持ちに配慮してもらったことは
一度もありませんでした。

いつも母は自分が言いたいだけ
深く考えずズバズバ言ってくる
ので

言葉による子ども時代のダメージ
計ることはできないのが残念なくらい
相当なものだったと思います。

何でも話したい母は
特に大好きな占いを持ち出し
いい予言ならまだしも
悪い予言もたくさん吹き込んできました。

20代30代と生きづらい人生を自覚するにつれ
いつしか
母の言葉は他の誰の言葉より
10倍以上影響力があることに気づきました。

それはプラスにもマイナスにもです。

母にプラスなことを言われると
10倍喜び
マイナスのことを言われると
10倍引きずる
のです。

それだけ母に心を支配され
母の評価1つで生きてきた
ことに
気づき出していました。

このことを自覚しだした私は
悪い予言は言わないでと訴えるのですが

人の意見なんて聞く気持ちが一ミリもないので
口先だけは「ごめんごめん」と言いながら
母はいつも同じことを繰り返すのでした。

私ももっと学習能力があればいいのですが
"考える力"が育たなかったため
ありとあらゆる場面で

真正面からぶつかってしまい
結果強気な母に
ぺしゃんこにされて終わり
という関係を続けてきてしまいました。

私に"考える力"が育たなかったのは、
母に指示命令をされて育ってきてしまったからです。

「ともみはどうしたい?」
「ともみはどう思う?」
など私の意見を聞いてくれた記憶はもちろんゼロです。

私はすべてにおいて、指示がきて、
小さい頃から”自分で考える”ことを全くしてこなかったのでしょう。

自分で”思慮深く考える”ことができない大人になりました。


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どのくらい考えることができないかというと

例えばニュースをきいても、自分で意見が持てないのです。

ニュースキャスターのコメントや新聞で意見を知って、
「世間はこう考えるのが普通なんだ」
と学び、それをなぞるのです。

瞬時に自分はこう思うじゃなく、
人はどう思うんだろう?
と考えてしまうのが
普通でした。

心を支配するのが得意な母に育てられた私は
”自分軸”がないまま育ちました。

従うことを当たり前にされ、反発してもはねのけられるので、
そのうち自分の意見は通らないと学んでしまったのでしょう。

意見を持てなくなってしまいました。

そうやって、自分の心に従うのではなく、
他人に合わせる生き方、
他人によく思われる生き方をするようになり、
”他人軸”で生きるようになりました。

だから私は自分がないといつも言われてきました。

”他人軸”で生きてきてしまったので、
自分がないのはある意味当然だったと思います。

また母は決めつけてくる人だったので

あんたは依存心が強い
依頼心が強い
ひがみっぽい
精神的に弱い
暗い

などのマイナスな評価
叱られる度、注意される度に
苦々しく言い放ってきました。

だからといってその性格を
こう直した方がいい
アドバイスや解決策を教えてくれるわけではなく

ただ
そんな性格だからダメなんだ
と言ってくるだけなので
希望も持てず

言いようのない悲しみや苦しみ
味わわされるだけでした。

言われるたびに
私は依頼心が強いんだ…
私はひがみっぽいんだ…
私は暗い性格なんだ…
という認識を強め

だから自分はだめなんだ。
だから自分が悪いんだ。

という思いを深めていきました。

1度目のうつ病のときはパニックになった母も
2度目のときは慣れて
「あんたはうつ病に逃げた」
という言葉を吐かれたこともあります…。

もちろんこの言葉にも
私はうつ病に逃げたんだ
私が悪いんだ…
長い間苦しめられました…。

いつか喧嘩をしたときに言われた
「あんたを育てるのにどれだけ苦労したと思っとるの」
の言葉には
「私は母にものすごい苦労をかけてしまったんだ…。」
と申し訳なく思う気持ち、つまり罪悪感を背負わされました…。

何かを言っても
言い過ぎたかもしれないなんて感じたことのない母は
言われた私がどんな気持ちになるかなんて
過去に一度だって考えたことはない
でしょう。

おしゃべりな母は
いつも自分が

言いたいことを
言いたいだけ
言ってきました。

息を吸って吐くように
私の性格を否定してくることが
頻繁にあったのです。

それが娘の心を
どれほど傷つけているかなど知らずに…。

今自分の半生を振り返ると
おかしなことはたくさんあるのですが
悲しいことに子どもはそれに気づけないのですね。


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子ども時代は触れる大人が少ないので、
自分の親が客観的にどうなのか、
理解することが本当に難しい
からです。

物心ついたときから
自分の育てられ方が普通だと思い、

これはおかしいのかも?と
疑う機会がほとんどないのも原因です。

かつ否定されて育つと
自分が悪いんだという考え方になる
ので
親が原因ではなく
自分に原因があると考えてしまう
のです。

実際私は押入れに入れられることを
自分が悪い子だからだと思っていました
昭和の時代
そんなに珍しいことではないだろうと
30代半ばで人に指摘されるまで思っていました。

それくらい子ども時代に感じた感情は
麻痺してしまいやすい
ですし
それが大人になった今でも
おかしかったんだと気づけぬまま
過ごしている人も
多くいます。

もしかするとあなたの中にも
麻痺したままの感情があるかもしれませんね…。

私はずっと人に嫌われることが怖くて
人に嫌われないように嫌われないように
八方美人で生きてきたのですが

それも育てられ方が原因だったんだと
学びました。

私が小さかった頃の母は、
気分によって態度を変えたので
どんな発言や態度が母の機嫌を損ねるかわからず

無意識のうちに
母の顔色を伺うようになった
ところから
八方美人生活が始まったのだとわかりました。

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子どもを育てたことがある人はわかると思うのですが、
子どもは親の思う通りにはなりませんよね。

子どもの態度にイライラすることを
何度も経験してきた人は多いと思います。

そのイライラを、
子どもにぶつけてはダメだと自覚し
自分で解消する努力をする親以外

悲しいかな
立場の弱いこどもに
暴言や暴力を使ってイライラのうさばらしする人が
本当に多い
です…。

自分の負の感情を子どもを使って
解消しようとする
のです。

子どもがダメージを受ける姿を見れば溜飲がさがりますが、

子どもが反抗的ならますます強い力を使って
立ち直れないほどの言葉の暴力を与えようとします。

親にしてみれば、弱いものを打ち負かした感覚がえられれば、
スカッとする
んですね。

同じく毒親に育てられた
恩師の心理カウンセラーmasaさんは

自分が悪いことをすると
父を嫌っていた母から

「お父さんに似てきた」
「あなたにもお父さんの血が流れているから」などと

究極の嫌味を言われてきたそうです。

masaさんのお母さんはこの言葉を
印籠のように使っていたと教えてくれました。

私が母に言われて一番辛かった一言は
「死ね!」
です。


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それは小学2,3年生頃で
泣きわめいていた光景を思い出せるので
母も泣く私によっぽどイライラしていたのだと思います。

親はむしゃくしゃした気持ちを、
暴言を吐くことで、子どもを傷つけ、
傷ついた子どもの顔を見ることで
その瞬間はスカッとするかもしれません。

けれど子どもはトゲの刺さったその感情を
何年も何十年も抱えて
生きていかなければならない
のです。

自分で頑張って消化しないかぎり、
一生でも続く
のです。

それほど深く傷つくことになると知らずに
うさばらししている親が多い
んですね…

あなたにも親に言われて傷ついたまま
解消できていない心の傷はありませんか…?


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こんなふうに、
言いたいだけ言って
言われた方の気持ちを全く考えない母に育てられた私は
自己肯定感も本当に低かったです。

なぜなら自分のやることなすことを
否定されることが当たり前

自信がつくように
育ててきてもらってないから
です。

ですが私の自己肯定感が低い方が
母はコントロールしやすくて
都合がよかった
でしょう。

自己肯定感が高く
やりたいことをやる!
という自立心の強い人間なら
親にきちんと自分の意見を貫きます。

もしそんな自己肯定感の高い私だったら
母は簡単にコントロールできませんから

自分がなく、
親の意見に従う自己肯定感の低い私の方が
母にとっては扱いやすくてよかったのです。

私は、
「ともみはどうせできないやろ?」
「どうせ知らんやろ?」
断定されることが多く

そう言い切られると
「そうだよね私できない…。」
「私知らない…。」
納得

母の前では縮こまってしまう自信の持てない
暗い性格
になりました。

だからといって
それを改善するために

「こうしたらいいよ」
「こう考えたらいいよ」

という提案やアドバイスをくれるわけではなく
いつも言い切って終わりなので

傷は負わされるのに、
そのあとどうすればいいのかわからない、
放置される、
だから自信だけはつかない

そんな人間になりました。

私は本当は母の愛情が欲しいのに、
頻繁に拒否されてきた
のでしょう。

愛着形成がうまくいかなかったため
いつまでも自立できない大人になりました。

愛情を満足いくほど与えてもらえなかった私は
39歳でmasaさんに出会うまで
大人になっても母の愛情を求め続けました。

母は女の子はいやだというニュアンスのことを
時々語っていたので
愛されているか自信がありませんでした…。

「お父さんはともみが好きなんやよ」
という言葉を投げかけられる度

「じゃあ母は私のことを好きじゃないの…?」
と受け止めて、落ち込みました。

高校生の頃に言われた、
「母親というのは男の子の方がかわいいんや」
というセリフは

「母は女の子の私を好きではないかもしれない…。」
と脳内変換され
いつまでも心に刺さって
より母親の愛情を求め続ける結果となりました。

私は母からのわかりやすい愛情
それが直接理解できる、

かわいいね
大好き
生まれてきてくれてありがとう
などといった

母からの優しい言葉がずっと欲しかったのですが
そんな甘い言葉を言われることは一度もなく

ともみは
優しいね
思いやりがあるね

など性格をプラスに褒められることも一度もなく

愛情不足を感じたまま大人になりました。

でも勉強や学校で表彰されることに関してだけは
よく褒められました。

子ども時代は褒められることが嬉しくて
無意識にがんばっていたと思います。

母自身が勉強が出来なかったことをコンプレックスに思っていたので
私たち兄弟を勉強ができる子に育てたかったのでしょう。

私たち兄弟は母の満足のいく
高校・大学に進学が出来たので
母は喜んでいたと思います。

その点も
母の思い通りに私をコントロールできた結果の1つだと
感じています。


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毒親という名前は
スーザン・フォワードの
「毒になる親」という本のタイトルを略したものが
そのまま世に出回りました。

私の母の言葉はまさに毒
特にきつい毒をもらったときは

いつまでも私を動けなくさせました。
私の心を麻痺させました。
全身に行き渡りました。
まさに有毒でした。

その影響は
自分が毒親育ちだと自覚
精神的にも物理的にも
母から離れられるまで
続きました。


母からの脱却

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そしてここからは
このように言葉でコントロールされ続けてきた私が
どのように母から脱却
自分を変えていけたのかお話しますね。

私が過去にこれでもかと壁にぶつかり
さまざまな苦しみを抱えてきたことは

毒親育ちなためだったんだという事実を
masaさんのカウンセリングを通じて
気づくことができました…。

本当にショックでした…。

受け入れられるまで時間がかかりました。


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母が毒親だったから
ああされたんだとわかる
様々なシーンを思い出しては
心がざわつき

当時の辛い感情も一緒に思い出しては
頻繁に涙をながしました。

思い出す度にネガティブな感情になり
心はいつも葛藤していました。

時間はかかりました
masaさんに教わった方法で
自分の傷を癒していき

許せなかった部分
ちょっとずつ許せるようになっていきました。

もう母を責めても仕方ない
自分は自分の人生をよくしていく方向に
エネルギーを使った方がいい

少しずつシフトチェンジしていけました。

母への執着を手放すことを頑張るのと同時に
自分の性格改善につながることを
必死でやり続けました。

感謝もできない性格でしたが
少しずつできるようになり

数年かけて

親に対して
産んで育ててもらえたことや
してもらって感謝な部分を見る努力をしていきました。

親を悪く思いたくないという人は
悲しかった気持ちを封印し
表面上傷ついてないふりをすることが
上手だと思います。

けれど悲しみは悲しみとして癒し、
感謝は感謝な部分として感じる。

つまりいいことで蓋をして
忘れよううとするのではなく

悲しみと感謝を
分離して考えていくことが
糸をほどいていくための
大切な訓練になります。

そうやって私は
【両親との心理的和解】
進めていきました。

毒親育ちの場合
子どもの頃の自分が育ちきらず
外見は大人、中身は子ども
つまりアダルトチルドレン
である場合が多いのですが

傷ついたインナーチャイルドを
癒してあげる
ことが本当に大切になってきます。


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私の配信しているメルマガ
私が心を込めて作ったオンラインプログラムの中では
インナーチャイルドの癒し方をはじめ
毒親育ちの人が
毒親から解放され”自分軸で”前向きに生きていくために必要なこと
たくさんお伝えしています。

ご興味のある方は下記よりメルマガに登録してみてくださいね。

https://support-mama.com/mailmagazine-2/



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このように私は
・インナーチャイルドを癒すこと
・セルフイメージを高めること
・いい習慣を身に付け”自分軸で”前向きに生きる方法

などいいと言われることをひたすら実践
がむしゃらに自分を変えていきました。

その結果
人に嫌われるのが怖く
八方美人
自分の意見がなく
〇〇しなければならないが口癖で
自分の気持ちより他人が自分をどう思うかを優先する
そんな他人軸だった私が

〇〇がしたいが口癖になり
人に嫌われることを受け入れられるようになり
人の目より自分の気持ちを優先する
自分軸
生きられるようになったのです。

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また40年間親元から離れたことがなく
精神的にも物理的にも母に依存していた私

40歳で引っ越しをすることで
初めて母のコントロールが及ばない生活をすることができ
精神的にも物理的にも
母から離れることができました。


このような様々な取り組みをすることで
私は生きづらさを感じていた頃の自分
180度違う自分になることができました。

毒親育ちだと分かったときは
ショックを受けましたが

今私は20年間わからなかった
過去の生きづらさの原因解決方法を知ることができ
本当によかったと思っています。

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なぜなら原因さえわかれば
からまった糸をほどくよくに
それに対して適切な対処をしていけばいいからです。

私は自分がなぜこんなにも様々な面でつまずくのかも
自分をよくしていく方法
全くわからなかった20年間を

自分はネガティブな性格で、辛い…
こんな性格だからいけないんだ…
ただ嘆くだけの切ない過ごし方をしてしまいました。


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こんな自分をいつも
どうにかしたいと思っていましたが

【どうすればいいのか?】は
全くわからなかったのです…!

だから原因がわかり
それに対する対処法を教えてもらい

自分を癒していくこと

それに並行して大嫌いな自分を
少しでもよくしていくために

masaさんから教えて頂いた
さまざまなよい習慣を同時に実践していくことは

もちろんたくさんの葛藤はありましたが
わからない闇の中をさまよっていた20年間に比べ
希望が溢れる毎日でした。

少しずつ自分がよくなっていくのを実感し
このまま続けていけば
自分がどんどんよくなる
ことも
肌で感じていたので

苦しい中にも
自分をよくしていける喜びを感じながら
自分を前向きに変えていけたのです…!

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そして今私は、過去の私が苦しんでいたように
今自分の生きづらさに悩む多くの方の心に寄り添い
生きやすくなるお手伝い
のできる立場にまで
なることができました。


今私は
私がmasaさんの力を借り
masaさんに寄り添ってもらいながら
自分を少しずつ変えていけた
ように

たくさんの方の心に寄り添い
サポートできる自分になれたことを
心から幸せに感じています。


長いnoteになりましたが
ここまでお読みくださり
本当にありがとうございました。

このnoteでは母にコントロールされ続けた私の半生
赤裸々にお伝えさせてもらいました。

ここまで読んでくださった方の中には

自分もそうだったんだ…
とショックを受けられた方や
モヤモヤや
苦しみや
葛藤を覚えた方もいるかもしれません。

そうでしたら
本当にごめんなさい。


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けれどそのモヤモヤ
誰かにとっては
「自分の傷を癒し
他人軸ではなく
自分軸でいきていくために
ここでアクションを起こしませんか?」

というお知らせになったかもしれません。

そんなお知らせにピンと来た方はぜひ
行動を起こしてみてくださいね。

誰かのお役に立てれば…と願いながら
心を込めてnoteを書かせて頂きました。

最後まで読んでくださり
本当にありがとうございました。

最後にまとめです。

生きづらさの原因がわかると
それに見合った解決方法を
実践していけばいいだけなので
生きづらい人生を
少しずつ卒業できます。
生きづらさを感じている人は
自分の心の傷・インナーチャイルドを癒すことが
とても重要です。
心の傷を癒すことと並行して
”自分軸で”前向きに生きる
いい習慣を身につけることで
人生を好転させていけます。
他人軸で生きてきた生き方から
自分軸で生きる生き方に
シフトチェンジすると
心をうんと楽にして生きられます。

このnoteを読んで
何かを感じられた方は
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