“褒めること”で、未来の君を守りたい。
最近耳にする機会も多い「自己肯定感」。
その大切さを知ったのは、最近になってからだった。
わたしは、あまり褒められずに育った。きっとわたしくらいの年齢の人はそういう人、多いんじゃないかな。
なぜならば、わたしの親くらいの年代って、『謙遜』に美徳を感じてるから。
褒めるところがない子どもだったわけではないと思うし、親を毎日困らせるようなハードな青春を過ごしてきたわけでもない。それなりにまわりに褒められながら生きてきた。だけど「親から褒められたこと」を問われても、わたしの中にすぐにそれは浮かび上がらない。
子どもの頃、同級生のお母さんや近所の人、まわりの大人に褒められると当たり前だけど嬉しかった。自分の好きなことや努力したことに対して認めてもらう嬉しさを知った。
でも隣にいた母は必ずこう言うのだ。
「そんなことない」。
そう言いながら、わたしが失敗した話や、いかにこれが出来ていないとか、あれが苦手だとか、わたしの“悪口”とも捉えられるようなことを笑顔でつらつらと話す。
当時、子どもながら「謙遜」というものを知っていたので、違和感を感じたり、悲しく思うことはなかった。なんなら「本当は嬉しいくせに!」なんて母に対して思っていた。我ながらハートの強すぎる子どもだったと思う。
そんな母親のもとで育った私は、そのまま「親に褒められる」ことを知らぬまま学生時代を過ごした。
「これっておかしいよな。」
そう気付いたのはわたしが母になってからだった。かといってあの命がけの出産を終え、胸に生まれたての我が子を抱きしめた状態で「おかしいな。」と気付いたわけではない。子どもがある程度大きくなり、ほかのママとの交流も増えたころ、ふと気付いた。
「〇〇ちゃん、きちんと挨拶できてえらいね。おしゃべりもすごく上手だし。」
わたしがそう言うとママ友は、
「ありがとう。そうなんだよ。この間も褒められたんだ。あのね、」
とニコニコと話し出した。
衝撃だった。
もちろん本心から出た言葉で、純粋にママ友の子をすごいと思ったし、可愛いなと思って発言した。だからママ友のその返しはわたしの発言と相違ないはずなのだ。
でも私はその時こう思ってしまった。
(え。否定しないんだ。)
その当時のわたしは「そんなことないよ。」からはじまり、我が子の“そんなことない”ポイントを話し、「だから全然なんだよ。」と自分を卑下して話していたと思う。
気付いていないのだ。卑下しているのは自分でなく、“我が子のこと”だということに。
そんな当時のわたしだったからこそ、“他者からの褒め”を素直に受け取っていることに違和感を感じてしまった。
そして気付いたのだ。
「ああ。知らないうちにわたしも母と同じことをしている。」
わたしの“褒め”を素直に受け取ってくれたママ友に対して、違和感を感じたとは言ったが“不快感”は感じなかった。むしろ素敵でうらやましく感じた。
そして子育てをする中で、そんな風に素敵な返しができるママにたくさん出会った。
それをきっかけにして、わたしは我が子が他人からもらう“褒め”を素直に受け入れられるようになった。
元々、わたし→子どもへの“褒め”は積極的に伝えていた。「褒めて伸ばす子育てがしたい」と思っていたからだ。しかしまわりの人を見て、自分が全然出来ていなかったんだなということに気付くことができたのだ。
“褒める”という行為はとんでもなくハッピーで、自己肯定感を高め、人を笑顔にするんだ!
しかしそれと同時に思うこともあるわけで。
「じゃあどうして母は他人の“褒め”を否定し、謙遜していたのだろう。」
直接母に聞いても、母の子育ては“褒めて伸ばす”という考えではなかったから、きっと本音は教えてもらえない。だからこれはわたしの憶測。
きっと母は用心深く、物事を良い方向に考えるよりも「この状況下での最悪なパターン」をいくつも考え、そちら側へは絶対に舵が向かないように自分の言動で調節していたのではないか。
我が子が褒められたとして、その言葉が本当かどうかわからない、“お世辞”であった時のことをきっと母は強く懸念していたのだ。これはその母の思想(わたしの憶測だけど)によって育てられたわたしもいまだに感じてしまう。
言い方は悪いかもしれないが「お世辞を本気にして喜ぶこと」を相手に笑われると危惧していたんだろうな、と思う。母はプライドが高いところもあったから。そして当時は「褒めて伸ばす」という考え方も浸透していなかったし。それも相まって母はそういう対応をしていたんだろうなと自分の中で咀嚼した。
でも、母と同じように“母”になったわたしが、僭越ながら当時の母に声をかけるとするならば。
「いいじゃん。お世辞でも。」
大人の頭で色々な可能性を考えれば考えるほど『謙遜』したほうが無難なのは理解できる。
でもその行為は、その場で褒められている子どもの“喜ぶ権利”や“満足感”を奪ってしまうことに気付いてほしかった。
せっかく他人に褒められても、大好きな母にそれを否定されれば、果たして子どもは自分を好きでいられるだろうか。「母がこういうなら自分はだめなのかも」と、自分を認められないのではないだろうか。
あの日のわたしに、もし母が。
「そう。あやかがすごく頑張ってたから、その結果だよ。」
そう言ってくれていたら。
わたしはなんだって出来るような気持ちで日々を過ごせていたに違いないと思う。それくらい他者からの“褒め”は自分の励みや活力になりうる。それが自分をよく知った親からの言葉であるならばなおさら。
相変わらず母は、母になったわたしを褒めない。
未だに食卓の中で、昔のわたしの間違いや失敗を、面白おかしく話している。
しかし幸運なことにハートの強い私は、それを聞いて母以上に笑ってやるのだ。
そしてわたしは現在、子どもを褒めることに夢中だ。
「学校、朝から1日がんばったんだ!?すごい!」
「箸箱出してある!天才じゃん」
「今日もかわいい!昨日も可愛かったのに今日も可愛いじゃん!才能?」
どうしてもオタクっぽくなるわたしの“褒め”を聞いた子どもたちは、照れくさそうに歯を見せて笑う。うん、まんざらでもなさそう。
君たちが褒められるとわたしは嬉しい。
君たちは褒めても褒めても足りないくらい、可愛くて、大切で、可能性だらけの人間だ。
だけどそんな君たちが生きるこそ世界は、どうにも理不尽で。大人になるにつれて“褒められないこと”が増えていくと思う。
すっごくすっごく頑張ってるのにね。
そのときにママが隣で背中をさすったり、美味しいご飯を作ってあげることが出来ればいいのかもしれないけれど、これもまた大人になるにつれて出来なくなってたりするんだ。
だから今のうちに、“褒め貯め”しとくよ。
これから限りなく続く君たちの未来で、つらくなった時に。
この思い出がすこしでも君たちの糧になればと願いながら。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?