どうして佐田先生は黒ジャージに白衣を着ているのか? ~渡邉有「月に背いて」感想文~

#創作大賞感想

読んでいる最中、ずっと鼻水が出ていた。

本屋に行っても、図書館に行っても、鼻水を出し続ける僕は、なんらかのアレルギーなのかと思っていた。

ただ、今回ばかりはタブレットでの読書だ。紙のアレルギーというわけではなさそうだ。ではなぜ、これほどまでに鼻水が出てしまうのだろう。

おそらく、アレルギーのように、体の中で、物語が何かを刺激しつづけていたのかもしれない。

興奮するほど鼻水が出てき始めたのは、この小説に暗躍する白と黒に気づいたからである。

「月に背いて」は、卒業したとはいえ、元生徒と現教師の恋愛譚のように見える。

教師が教え子と恋仲になるなんて!と、眉をひそめる向きも多かろう。

教えるものと教わるものの間には、擬似的なエロス関係が生じる。田山花袋の『田舎教師』しかり。

尊敬を愛情と錯覚してしまう事例を、多く見てきた。太宰治と山崎富栄。

卒業して、社会に呑まれ、荒波をかいくぐる中で、かつての熱情の偏りに気づくこともしばしばあるものだ。

しかし、感情と温度に注目したとたん、この小説が含んでいる冷気に気づくことになるだろう。

読んでいて、とにかく寒いのだ。

だから鼻水が出て来たのではないか。

感情が融解できない低温の世界観

主人公の椎名葉月は、卒業してもまだ、佐田という理科教師のことを忘れられずにいる。

それが「愛情」なのかどうかは、明確に説明されない。

この作品が持つ緊張感は、この名づけ得ない感情に、ある。

「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」と、昔、サンボマスターというロックバンドが歌っていた。

では、これは「愛」だろうか。

感情が熱に溶かされて「愛」へと固まっていく。

しかし、溶かすだけの「熱」を持たない二人。融解点ギリギリまで熱が高まるのに、溶けない。そのもどかしさこそ、この「月に背いて」の面白いところだと思う。

「あと、申し訳ないんだけどねまきを貸してくれない?知ってると思うけど、俺は前から寒がりだから」

佐田の温度は上がらない。ここに象徴されるように、全体のトーンは明るいのに冷たい、月光のようなムードが横溢している。

肌が触れ合うと、彼が背負い込んでいる悲嘆とも憂苦ともつかない深い闇が浸透するように伝わってくる。それはまるで冬の底にいるような、果てのない闇だった。

温度感の狂い。

「最近海を見ている夢をよく見るの。どうしてだろう。すごく鮮明な夢。暑い季節なんだけど、砂浜に人がいなくて、天気が良くて、太陽が眩しくて。冬なのにどうしてそんな夢を見るのかな。この家に来てから、なんだか変な夢をたくさん見る」

感情が溶ける温度にならない。確かに高まっているものの、それを溶かすほどじゃない。やはり葉月の夢にも、温度感の混乱はみてとれる。

果たして、感情を二人の熱が溶かし、愛情へと変形して、固着するのか。

これが「月に背いて」のサスペンスだと思う。

白と黒 ~なぜ佐田先生は黒ジャージに白衣を羽織っているのだろうか?~

椎名葉月は25歳。佐田先生は35歳。高校在籍時は、葉月18歳として、当時佐田先生は27-28歳というところだろう。

最初僕は、佐田先生が還暦近い人物だと思って読んでいた。違った。35歳で、はやくして妻を亡くした、独身男なのだ。

だとすると、佐田先生は、再婚相手に、椎名葉月を指名しても不思議ではない。妻の一周忌も終わらないのに、昔の教え子なのに、恋愛であれば、そんなことは障害にもならないだろう。

どうして佐田先生はいつまでたっても冷え切っているのか。

若くして亡くなった妻のことをおもんばかっている、ことがブレーキをかけているのは間違いない。けれど、葉月とは寝てしまう。寝てしまっているのにブレーキをかけているのは、アクセルを踏みながらブレーキをかけているのと同じことだろう。

佐田先生の周囲には、黒と白の葛藤がつきまとう。

葉月の担任だったころは「黒いジャージの上に丈の長い白衣を着て」いるし、久しぶりに葉月にあったときも「黒いスーツを着た佐田先生」だし、結婚式では「白髪の中年男性と佐田先生」が話している。

白が黒を侵犯する、そんなイメージが反復される。

葉月が目を閉じると「白衣を着て教壇に立ち、黒板に向かっている先生の後ろ姿が思い浮か」ぶし、遊びにいった葉月を迎えるのも「黒いTシャツに白いジーンズを履いた恭子」なのだ。再開した佐田先生は「漆黒の瞳でテーブルの一点を見つめて」いるし、出会う事故は「白い軽自動車」が「黒いワンボックスカーに追突」したものであり、その「黒いワンボックスカー」からは「白髪頭の男」が出てくる。

白と黒。無彩色の世界の演出だと思う。けれども、もっと深いところで、この二つの色は、物語の構造を予告しているようだ。

白は、この二人の間に、かろうじてできる色である。白は時折黒を侵犯し、それが極大化すると「赤」になる。

ガラスが割れる激しい音がして、壁にぶつかり跳ね返るボールが見えた。細かいガラスの破片が髪をかすめていく。視界がスローモーションではなくなった時、まず最初に目に入ったのは先生の白衣の皺だ。本当に目の前で見た。その白衣に突然赤い染みが出来た。

しかし、闇が白を隠そうとする。

先生の目から光が消えた。さっきまでマグカップから白い湯気が立ち昇っていたのに、いつの間にか消えてしまった。

女の人の声を聞いたとたんに、白い湯気は消える。

あの抱きしめられたときの赤を、おそらく葉月は再現したいと思っている。血の熱。それが感情を溶かしきる何かだと思っている。

やがて快楽の熱が体の深部から全身へと淀みなく広がった時、私は先生を見下ろしてその瞳を覗き込んだ。両手で首筋を優しくなぞり、指を這わせ喉仏の位置を確かめて、頸動脈の拍動をじっくりと感じ取る。左頬の薄い傷に口をつける。もっと一つになって、線も縁も溶かして、この人を自分だけのものにしたい。

頸動脈に昔の傷。黒の世界に白をもたらし、そこに熱の赤を加えたい。そんな熱が一瞬だけ盛り上がる。

私は知らない家のリビングにいた。いや、でも見覚えがある。ここはさっき見た先生の家だ。窓からの優しい日差しが部屋中を温かく包んでいた。台所に目を向けると、30代くらいの黒髪の女性が白い猫を抱いて立っている。この人は誰だろう。胸の辺りまであるその髪は光沢を放ちとても美しい。瞳の色はぞっとするくらい漆黒で、肌の血色は失われていた。私はゆっくりと目を閉じて、深く深呼吸をした。目を開けると、彼女の美しい黒髪はほとんど抜け落ちていた。まだらに残った髪の隙間に、肌色の頭皮が見えている。彼女は泣いていた。

黒髪、漆黒の瞳、白い猫を抱いている女性。

今まで、佐田先生につきまとう白と黒の相剋は、おそらくこの女性の執念のようなものなのだろう。そういえば、すでに、冒頭で葉月が「雲一つない青空を眺めながら、やっぱり私は黒が一番似合うのだな」と思う時、女性の情念が葉月のもとへ届いていたのかもしれない。

まだ佐田先生と奥さんが新婚だったころに来た海。

私は目を閉じる。瞼の裏に明るい景色が浮かび上がる。春の海に先生と奥さんが並んで立っていた。陽光に照らされた水平線は眩しいくらいの輝きを放っている。湿気を含んだ温かい潮風が頬を撫で、彼女の美しい黒髪をなびかせている。どこまでも優しく澄んだ蒼空に綿菓子のような白い雲が浮かんでいて、カモメの鳴き声が聞こえる。砂浜には二つの足跡が並んで続いていた。二人は繋いだ手を決して離さないことを誓った。

それを幻視する葉月の眼には、「黒髪」と「白い雲」が明確に映っている。ここで、佐田先生の亡くなった妻は、呪いという鍵をかけたのである。

佐田先生と心中するかどうか。その試練を切り抜けて、家路へ帰る最中、やはり葉月が思い出すのは、

波の音に混じり、チャイムのような音が遠くから聞こえた。この近くに学校でもあるのだろうか。それとも教会だろうか。いずれにしても何かが終わって何かが始まる音なのだろう。私は彼が白衣を着て黒板に向かう背中を思い浮かべた。

呪いをかけた妻のものになっている佐田先生から、その敗北を認めて、色のある、温度のある世界に帰らなければならない。

同級生の井川は、葉月に温度を与えてくれる。

彼の声を聞いて、心臓から拍出される血液が手足を温めていくのを感じながら、その家をあとにした。

恋愛物語と見せかけたホラー小説。

本当は、この祖父の作った家と葉月の関係が、唯一小説内で言及されていない葉月の母のこと、と組み合わさった時、おそるべきホラー小説として、立ち上がるだろう。

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