パッパルデッレ

50歳の太ったおじさん。ゴミ屋敷を片付けたい。料理やワイン。時々、本を読んだり美術鑑賞…

パッパルデッレ

50歳の太ったおじさん。ゴミ屋敷を片付けたい。料理やワイン。時々、本を読んだり美術鑑賞。自分が亡くなったあと、子どもたちが私を思い出しながら読んでほしい内容を書きます。ちょっとリアルは「感想」の中に。

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誰に向けて、なぜ書いているか

冒頭にアンカーする記事を書いてみよう、ということで、わざわざ時間を使って、何を誰に向けてなぜ書いているのか、について書いてみようと思う。 まず、誰に向けてなぜ書いているかというのは簡単だ。自分の子どもたちに向けて、子どもたちが大人になって、自分が亡くなっていて、父のことが知りたければ読んでほしいと思って書いている。要するに遺言や遺書の類というわけだ。 私の父はすでに80を超えていて、昔から自分の父母(私にとっての祖母)のことを書くといっていながら、まったく書くそぶりをみせ

    • チャールズ・ディケンズ「バーナビー・ラッジ」1

      またも江戸川乱歩で申し訳ないのだけれども、乱歩と言えば推理小説、探偵小説。それらジャンルの日本における第一人者ということになっていて、その起源をたどっていくと、そこにはディケンズがいた。あ、ディケンズ。私はひとりごちた。ディケンズの小説「バーナビー・ラッジ」の冒頭で開陳される20年前の殺人事件。これが最初の推理小説的事件と一般的には思われているみたいで、高橋哲雄氏の『ミステリーの社会学』の中でも劈頭におかれ、論じられていたというわけである。 『英国古典推理小説集』という岩波

      • 檀一雄「花筺」

        「檀一雄亡き後、文学は死んだ」と酔って叫ぶ人物を、かつて、福本伸行は『熱いぜ辺ちゃん』の中で書いていた。 脇役の発言など、作者がどこかの飲み屋で聞いた戯れ言をただ写しただけなのかもしれず、ことほど気にしなくてもよいはずなのだが、何ぶん若かりし頃に読んだものなので、素直に「そういう考え方があるのか」と感心して、記憶の中にしまっていた。 それで、ある時に檀一雄の作品を、書店で探すことになるのだが、1995年の段階で見つけたのは、金もなかったので、文庫本メインの探索だったことか

        • 【創作】石永清文の令和戦記 1

          割り込んできた車のルール違反を注意しようとして、窓に近寄って行ったら逆ギレしてきたので、さっきたまたま購入してポッケに入っていたナイフをチラリとみせたらあのバカ警察なんか呼びやがって、俺はそのまま捕まった。 曲がったことが許せなくて、カンニングを疑われたあの日、やってないから言い訳しなかったら、そのまま一年留年になった。仕方がないからバイトを始めて、元来俺は真面目でオツムも良かったから、店長の真似事なんかやっていたらいつしか一年経ってしまった。2年間でほとんど単位も取れてな

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          7本
          ¥100

        記事

          2024.09.21

          来週、例の手術の仕切り直しとなる。もう話題として新味もないので、あまり考えずにきてしまったけれど、今週末にとにかく面倒なイベントを控えているので、入院開始の水曜日まで、落ち着く日がない。月曜日も休日といいながら、全く休める気配がないし、何なら火曜日から上の子が行く修学旅行的なものの準備をするために、あれやこれやのモノを探さなければならない。日曜日は、朝4時起きで行楽である。暑い中、楽しむのは家族だけで、無理に気持ちを普段なら奮い立たせることはできるが、手術の面倒さに気持ちが絞

          谷崎潤一郎「富美子の足」がやりたいこと

          集英社文庫の『谷崎潤一郎フェティシズム小説集』は、なかなかよく出来たアンソロジーですね。 ここに収められている短編全てに、フェティッシュが含まれているかと問われたら、そうも言い難い部分もあるのですけれど、谷崎(大先生と呼ばせて頂きたい、大谷崎ではなく、「大先生」です)の振る舞いから、書くことはフェティッシュたらざるを得ない、という真実を会得するには、充分な内容を持つのではないかと思われます。 その中でも、「富美子の足」という短編は、圧巻です。したがって、今回は、その短編を

          谷崎潤一郎「富美子の足」がやりたいこと

          2024.09.20

          舌の根も乾かぬうちにまた乱歩かよ、と言われそうですが、一瞬、noteを不変のコミュニティと錯覚して、慌てふためいた己を恥じ、所詮、ここは公道と同じようなもので、常套句めいていて全く嫌なフレーズなのですが、さよならだけが人生だ、と思いなすことといたします。したがいまして、ここ数日のあれやこれやについては、ひとまず、黒歴史として織り込み、あと数年もすれば、きっと始めそうな別のブログサイトで、昔いたサイトでこんなことがあってね、なんていう枕から話し始めるためのネタとして織り込もうと

          アルカイックスマイル

          保育園の時に、多くの幼児をパンパン叩く寺尾先生(実名)という年配の人がいた。叩く理由は、多くの場合、感情的なものではなかったと思うが、それでもやはり叩かれると、萎縮する部分はあった。 寺尾先生は、仏像みたいな顔をしていた。 四角い頭で、パーマをかけ、お受験ママみたいなメガネで、化粧が濃かった。 寺尾先生は、容赦がなかった。 お散歩の時間に、いつまでも砂場で遊んで用意をしない子どもらを、保育園に置いて行った。その中には、下駄箱で私と鳩尾の殴り合いをした沢村君もいた。沢村

          アルカイックスマイル

          う〜ん、乱歩の連打というのも、どこか一人相撲だったのかもしれません。ショックですし、理由もあんまり思い当たることがないのですが、書いている内容が問題だったのでしょう。 さようなら。 今までありがとうございました。 Noteを去るわけではないのですが、ケジメとして。 私信です。

          う〜ん、乱歩の連打というのも、どこか一人相撲だったのかもしれません。ショックですし、理由もあんまり思い当たることがないのですが、書いている内容が問題だったのでしょう。 さようなら。 今までありがとうございました。 Noteを去るわけではないのですが、ケジメとして。 私信です。

          小林信彦『回想の江戸川乱歩』

          面白かった。 今までの自分の読んできた乱歩文献の中で、一番面白かったかもしれない。 この中で、小林信彦が一時期、上越の高田に疎開して、旧制高田中学校で学んだ時期があったことを知った。年齢からして、先年亡くなった義父の一つ上の世代なので、どこかでニアミスをしているのかもしれないと思った。義父は、新制高田高校に学んでいるから、制度の移行期にあたり、把握が難しい。 小林信彦の疎開での嫌な体験を描いた『冬の神話』も、もう手に入れるのは難しいものだけれども、再販を願う。 小林信

          小林信彦『回想の江戸川乱歩』

          2024.09.17 〜平井隆太郎『うつし世の乱歩』〜

          私の頭の不調は乱歩に原因があるのではなく、乱歩には全然関係ない論考に対する失望の念がもたらしたものである。そのことは、ここでアップすることが憚られるので、時間が経って、その気持ちが消えるまで、待とうと思う。 先日亀戸で買った、乱歩ご子息の平井隆太郎さんの乱歩の思い出が綴られた『うつし世の乱歩』は、すぐに読み終えられた。そして、非常に楽しかった。 子どもから見ると、父のやっていることは、時間のズレとかも相まってよくわからないことが多い。私も自分の父のことはよくわからない。論

          2024.09.17 〜平井隆太郎『うつし世の乱歩』〜

          乱歩についてのうつろなメモ

          内田隆三『乱歩と正史』は、作家論、作品論、社会表象論の三つが組み合わさった書籍で、総合的なものだった。 ここまで乱歩関連の文献を読んで来て気が付いたことがある。 乱歩は、1927年以降、自分の小説家としての限界にゆきあたり、何度も自己嫌悪や自信喪失に陥った。けれども、何かを書かねば生活がたちゆかないということもあって、冒険活劇ものや、子ども向けの作品群を、「自信喪失」以降もたくさん生み出した。 乱歩を作家として位置付ける目線は、いわゆる「前期乱歩」期の作品に、注がれるの

          乱歩についてのうつろなメモ

          ヘンリー・ジェイムズ『ワシントン・スクエア』

          ヘンリー・ジェイムズはイギリスの19世紀を代表する作家の一人である。 「イギリスの」と書いたが、これには語弊があって、アメリカで生まれたヘンリーは、やがてイギリスへと帰化することになる。 だから、アメリカの作家なのかイギリスの作家なのか、ナボコフと同じように定めづらい。言葉がだいたい同じなのも、この定めづらさに拍車をかけている。 ヘンリーのこの帰化の不思議さについて、昔はよくわからなかったのだけれども、今ならば、英国と米国の相違が、ヘンリーが生きた時代には明確になってい

          ヘンリー・ジェイムズ『ワシントン・スクエア』

          『旅猫リポート』、原作と映画を比べてみた

          #ネタバレ 昔の記事です。 * 映画と小説の違いを考えるシリーズの一つです。 映画から観たのですが、動物と子どもが中心の内容は、必ず泣いてしまいます。 でも、観終ったあとに得た感覚は、『フランダースの犬』のそれと似ていて…。 大体にして、怪我した猫を助けて飼いはじめちゃう程の猫好きが、飼い猫を誰かに託すために旅に出かけるって、もう、結末自体はある程度推測ついちゃうものですよね。 本の帯にもう、 って書いてあるじゃあ、ありませんか。 それでも、かなり無防備な状

          『旅猫リポート』、原作と映画を比べてみた

          「旧大正通り」を歩こうとしてみた 〜大島・亀戸・両国〜

          とりあえず、先だって話題に上げた「旧大正通り」について、歩いてみようと思いました。それにはまず亀戸に行かなければいけません。 けれども『日本の道事典』には、靖国通りの旧称が大正通りと書かれていて、それゆえに起点は「中央区東日本橋2丁目の両国橋西詰から新宿歌舞伎町1丁目にわたる」と書かれています。 亀戸起点にしているのは藤井淑禎さん。とりあえず今回は、藤井さんの記述に従って、亀戸起点の国道14号を西に歩いてみようと思いました。 ただ、それだけでは実入がないので、大島駅から

          「旧大正通り」を歩こうとしてみた 〜大島・亀戸・両国〜

          水戸、弘道館

          上の子が行きたがっていた100名城探訪を進めるために、水戸城に行ってきた。 しかし、ハンコを押すポイントは、水戸城そのものではなく、徳川斉昭が開いた弘道館にあった。 時間もなかったので、水戸城に入れるのかどうかとか、偕楽園とか、そう言ったものは全部はしょって、弘道館だけに集中することにした。 いつもの探訪とは違って、子連れで、時間制限がある。そのため、なかなかいつものようなゆとりある弾丸旅というわけにはいかなかった。本当に行って帰ってになってしまった。 9:00出発。