見出し画像

拝啓ニーチェ殿、未来の私だけど、絶望はまだ深いってよ。


「受容の階段」はミドルクライシスと葛藤の二重螺旋構造

 解雇宣告されて数週間が過ぎた。退職までは定期報告する形になっているので虚しい気持ちで病状報告をいれていた。これほど無駄な時間と苦痛はなかった。歩行器をつけ直立したたまま、タブレットで事務作業を数分行う。

 本来、不当解雇にあたるが中小企業への転職であった上、世間はコロナ禍で先行き不透明。挙句に同世代おっさんによる中小企業独特のイジメが蔓延る会社、(生え抜きの方は面白くないのは当然、気持ちはわかるで!)これ以上の摩耗して居続けてもしょうがない。会社側も私が総務人事経験者なので厄介な事にならないようにしっかり弁護士と相談した上で対応してしてるのが些細なやり取りでもわかった。阿吽の呼吸で“引き際“を呼応して双方撤退戦で対応するしかないのです。

 40過ぎたら役割をこなすだけ。与えたり、自ら創出したりして生き抜いていくしかない。そんなマインドで過ごす社会人生活とは如何なものかと思う。金ためだけじゃないし、私なりに仕事にも充実も覚えるが明るい未来を見い出せず、プライベートでは子供の成長を見守ってた次期はとうに過ぎ去り子供達はそれぞれの価値観で逞しく育っていってる。中年は想像してた以上に険しいミドルクライシスの山々を登っていくんだなあ〜と病気になって実感した。なんやかんやで波瀾万丈で適度に忙しく、生きるのに必死で立ち止まる暇すら与えてくれないので、一旦、休憩と思えば徐々に心が楽になっていったと思います。

生まれた瞬間からロッククライミングではないんだよね。最初から危険コース、安全コース、変則裏道街道、色々なルートで登頂できるって若者に伝えたい。

仕事が生活のほとんどを占め、『仕事が人生という虚像』に囚われたいた私

 社会人、親になってから私はすっかり変わった。元来、真面目に仕事をするのは嫌いな人間だった。スキあらばサボる、楽な方向ばかりを選択して生きていくのが本来の自分。どうして、こんなにも変わってしまっただろうか。楽や棚ぼた、効率を考える事が得意だからSE、ゲーム、生産管理が自然に仕事になったのも今更ながら納得もする。年齢や経験を積むにつれて責任や実績、競争、出向、リストラ、倒産、転職など様々な社会要因と経験に晒されて順応しただけではないような気がする。私見ですが日本の生きづらさは「仕事に対しての厳しさ」「理想の親幻想」これに尽きる。世界で一番働いても報われない、楽しくなくなる、人間関係至上主義が蔓延してる。さらには会社に帰属意識と忠誠心が要求される。養育費を稼がないといけない呪縛。使役と居場所を求めて彷徨うしかない日本の構造にも問題があるようにいつも感じています。(他責を許さない日本の道徳感や文化基盤。)

人生は山あり谷ありでゆらゆらしても進んでいくもの

 仕事を一旦離れれば、解放された感じもする。それと同時に社会からどんどん置いていかれる疎外感と焦燥感も襲ってくる。現役感や技術レベルの低下、何よりビジネスマインドが失われていくのがわかる。迫りくる医療費と生活費、子供たちの養育費。まずは“お金=生きていくには働かなければならない。”子供の成長は待ってくれない上、養育費はかさむ。”この2軸が仕事を人生と切り離せないという罠に嵌っていたのです。病気&骨折しても仕事と子供達を考えてしまう私は『仕事が人生』というおかしな状態になっていたと思う。病気療養して初めて気づいた。だから、苦しく絶望を感じたのではないかと。自分なりの答えが見つかるまでは本当に何も光が見えない。ここに辿りつくまでが苦しかった。

 ほぼ寝たきりの闘病生活を乗り切るヒントにたどり着いた気がした。この苦しい様々な負の感情が襲いかかる、絶望にある原因はなんぞやに行き着いたのです。闘病生活の4ヶ月ぐらいは本当に思考が停止する。深く、長い海底トンネルを突き進み、勾配が平な海底の地中まで潜ってはじめて[絶望]という嘆きの壁が姿を表す。絶望というパワーワードを心から実感して初めて気づく。それほど時間がかかる。

OK!Google 先生は何でも答えてくれる。

 このジレンマを抜け出すにはどうすればいいか。Google先生に聞いてみたら、絶望や虚無を分析し原因を説く近代の大哲学者ニーチェが検索に挙がってきた。『神は死んだ』『ルサンチマン』でお馴染みの偉人。それぐらいの知識しか持ち合わせていません。(お恥ずかしい。哲学って難解で避けてます。)折角、時間があるのでニーチェの本を読んで見ることにしました。

wiki引用 Portrait of Friedrich Nietzsche, 1882; One of five photographies by photographer Gustav Schultze, Naumburg, taken early September 1882. Public domain due to age of photography. Scan processed by Anton (2005)

難解、入門書ですら難解。お馬鹿な私には理解が追いつかない。でも、この苦しみから抜け出し答えを得たいので必死に理解するように努めた。すがるしかなかったのです。

ニーチェは100年以上前の時代を生きた哲学者ですが、その思想には現代の私たちにも共感できる部分があります。名言製造機の彼ですがとにかく、苦痛をとことん考え抜いた偉い人です。

「苦痛に満ちた世の中を、どう肯定して生きていくか」を徹底的に考え抜いて、新しい概念を生み出してくれました。

勝ち組負け組とかそんな狭い生き方尺度ではありません。
人生どうでもいい、人生に意味を感じられない 救済、貧困など実社会に生きる私達の苦痛 このテーマをしっかり人間分析して答えてくれています。

※思想哲学なので賛否や良い悪いではないです。実在現実主義なので耳がいたいですし、合わない人もいるとも思います。

ニーチェ先生の教えは『進撃の巨人』そのまま。

 ざっくり超要約するとニーチェ先生の教えは『進撃の巨人』です。
※私的な解釈です。哲学専攻や心理学の学習をされてる方は異論、諸説あると思います。論壇は学会や専門書記事でお願いします。私なりの咀嚼を記載させて頂きます。


そもそも、世界は過酷で残酷だし、
正解なんてない決断を常に迫られるしんどいもの。

そんな、苦しい世界で幸福になるためには、
強く生きて行く必要がある。でも、キリスト教はそれを教義や説法で
それを歪め、弱者が弱者のまま生きる事を正当化してしまった。
それ、アカンやんけ。

要は自分で何も努力せず、神とかいう訳のわからないものに
自分の人生を丸投げし、ただ祈ってればいい、
辛いことがあっても都合のよい御託、気持ちのいい説法や
気休めの言葉で甘んじて受け入れようとする堕落した人々を量産
しちゃダメだろ。(怒)

つまるところ、人間の生きる力、少しでも成長したい、
少しでも幸福になりたいといった、
向上心みたいなものを潰すのはもう、やめましょうか。
また、その原始的欲求を悪用するのもやめましょう。

概ね、こんな感じです。

Heritage Images |©: Getty Images 著作権: Fine Art Images 
©諫山創・講談社/「進撃の巨人」The Final Season製作委員会 

自己啓発本、ガッツリ読む人。。。
詐欺に引っかかってるとしっかり記載してます。自己研磨し続けてビル・ゲイツにでもなるんかと財団でも作りたいんかと思いますよね。日本人だけが自己研磨に躍起になってる気がしてなりません。

さらに本質をついていた事も教えてくれてます。

努力は意味ないです、報われるどころか平気で裏切る。
良いことも悪いことも自分に跳ね返ってくる。そこをしっかり抑えてくださいねとも教えてくれてる。

身も蓋もない。ああ、無情。。

#############  余談  ###############
原作漫画、テレビアニメの「進撃の巨人」が国内だけでなく世界中で人気なのは、練り込まれたストーリーライン、社会問題以外にもこんな深いテーマまで掘り下げられてるからなのかも。。無知の自分が恥ずかしい。
 ニーチェ大先生が凄いのか、諫山創先生が凄いのか。

©諫山創・講談社/「進撃の巨人」  第10巻  第 42章 画のみ 引用)

################################

ニーチェ先生による人間の本質

※あくまでもニーチェ哲学の入門書を私なりの纏めです。

人は、自分の人生に責任を持ちたくない。
人は、決断をしないままでいたい。
人は、成功を甘受したいけど失敗はしたくない、
   仮に失敗しても誰かのせいにしたい。
人は、苦痛から逃げられる甘いウソ虚像にすがりたい

引用:竹田 青嗣 (著) ニーチェ入門(ちくま新書)

もう、辛い。。やめて欲しい。ニーチェ先生って発狂したらしいですね。
こんなグサグサくる事をこれでもかとエグッてきます。病人で心身共に疲弊しているので、もう、私の精神的にも追い込みをかけるほど内容でした。
ですが、絶望から救われたいから耐えられたのだと思います。


絶望の正体

人は自分が絶対だと思っていたものから裏切られるそうすると、
信じていたものが違うって分かったときにニヒリズムという感情が支配し、虚無感、絶望へと陥るとの事。※厳密に記載すると些細な私たちが何気なく信じていたもの、そして信じていたかったものでもいいらしい。。

引用:竹田 青嗣 (著) ニーチェ入門(ちくま新書)

ニヒリズムとは、

人生の意味を外部にある、何か超越的な源(魂、事情)に求めるということ。自分の人生の外にあるものに生きる意味を求めることで、結果的に自分の人生を生きないということ。

翔泳社刊 著者ノーレンガー・ガーツ 『ニヒリズムとテクノロジー』引用

さらにニヒリズムはざっくり3つあるらしい

  1. 弱さのニヒリズム

  2. 消極的・受動的ニヒリズム

  3. 能動的ニヒリズム

信じる、信じたいと思っていたものの価値を失うと、無意味に感じる。
ある意味極論:今までの人生を否定することににつながる。

ニーチェ先生の考えでは。。
→信じられない事態に遭遇すると絶望し、疲弊して、思考も止まる。
→泣きわめき、嗚咽、不眠、無関心、孤立、孤独、拒絶の順を辿る。
→しばらくすると、その時々に身を任せ、流れるように生きる態度になる
→無気力、怠惰、自分の意思を持たないようになる、または人に委ねる。

人とニヒリズムの関係

人とニヒリズムの関係とは、死後の世界を約束し、生きながらにして死を体験させることで、人々の苦しみを和らげることだ。そして、生きることの重荷、自己を顧みる重荷、意思決定の重荷、弱さの重荷、孤独の重荷、責任の重荷から自分を開放したときに、これは実現する。ニヒリズムに陥っても何かにすがって誤魔化し、また裏切られてニヒリズムに陥る、このループから人は逃げられない。

翔泳社刊 著者ノーレンガー・ガーツ 『ニヒリズムとテクノロジー』引用 

導き出した解決策の一つ『超人』『超越者』になれ

 極解すればニーチェが言うには『超人』になれ、それしか絶望に勝たん。

「自分で決断して強く生きる」ことらしい。「自分の理性の正しさ」に絶対的な価値を置いて人生の不条理さから目を逸らせと。

引用:「新編はじめてのニーチェ」 講談社 適菜収

 こんな無理ですやん。何でも人類の3~4%は超人、超越者になれる人がいるって語ってる。はたして私にできるのだろうか。。数%に入る事なんて人生無理ゲーすぎる。私はそこまで心が強いか自信が持てない。この超人の域に突入しないと恐怖や不安を拭い去る事ができないとの事。したがって、私の性分に合ってる方法は、一旦、ニヒリストになる。落としドコロを定めた。

 ニヒリストになれば一時救われる。でも、繰り返しだからそこは間違わないとも読み説き、私は都合よく解釈をしました。自己否定して、己を殺せ。そうすれば絶望を和らぐことができる。ある意味、今までの人生を否定する。このようにもとれました。

 深い。哲学は深すぎる。私ごときが理解する、実践できる代物じゃない。
このニーチェ哲学を踏むプロセスが私にはなかった。もっといえば勇気がなかった。新たな発見でした。自己の否定をする事を避け、弱い惨めな病人、中年のプライドが邪魔し、浅はかで思慮深さがなかった。ニーチェ哲学を初めて触れて「心の受容」に入る段階が開いた感じがした。

 なんとなくではありましたが、絶望の正体をつかんだ気がしました。私が病気になってからの様を見事に言い当てており驚きました。時間が経てば治るものではない事も理解した。後悔の念、様々なしがらみからも開放されなくてはいけない事も自覚しました。


哲学者ニーチェ大先生絶による絶望はこんな概念イメージ

LESSON1 ニヒリストデビュー 不条理から目を逸らす

人生の不条理さから目を晒す。まず、これに着目した。これなら簡単。
全てを運命、運としてしまえばいい。先天的才能と後天的才能、偶然や必然といったものと同じと考える事にしました。

尿管結石になったのは原因があるわけで必然に区分した。その歳に発生した骨盤骨折、背骨損傷はこれは偶然に区分した。因果関係はしっかり存在していても都合が悪い事を「運」のせいにしてしまえばいい。自分にのって都合の悪い事は「運」の性にする。楽観的ですが、生きる上で元来人間がもっている防衛機能だ。都合の悪い事は忘れる、目をつぶる。いつから、出来なくなっていったのだろう。

LESSON2 重荷の開放 

 生きることの重荷に関しては、広義すぎて困惑したので、まずは”身の回り”と定義した。これは闘病生活なので実質達成。私生活の食事面は食事の自炊はやめた。Uber eats、出前館で済ます。ただ、食って出すだけ。ゴミ捨て等もできないので友人と親戚にお願いすることにした。

 意思決定の重荷に関しては、無職なのでこれも達成意思決定することなどほぼない。意思決定するには何らかの選択が迫られる事が前提なので、せいぜいあるのは、闘病生活は暇なので読書の本を決める事、youtubeの動画選び、映画の選択、ボタンを押すだけの作業。エンタメ娯楽だけの意思決定だけは除外するようにした。

 孤独の重荷に感しては、私は独身中年、バツイチ。独り身なので寂しさにはもう慣れた。家庭をもっていた時はそれは何者にも変えられない幸せがあった。SNSは連絡に使う程度。Twitterで面倒臭い炎上に巻き込まれてSNSは閲覧専門になった。LINE、FACEBOOKは交友関係の管理把握が溜まっている、随分更新していない。何より良く分からない他人も含めての充実度ハッピーアピールの自己顕示欲のような写真に疲弊を覚える。孤独は子供達にLINEをたまに送り既読がつけば安否確認が取れる程度で満たされる。

 自己を顧みる重荷
に関しては、丁度いいタイミング。ミドルクライシス中。人生の折り返しであり前職でミッション失敗ワンアウト、左遷で転勤の辞令をもらい、その辞令を断り会社辞めた。第二の人生を歩みを始めたばかり。現役エンジニアや業界に拘りたいオモイでの転職先での病魔。ここは一旦、身体と相談ということで保留。自分の人生、記憶を残す為にNOTEを始めたわけだ。鑑みると過去の栄光や輝いていた若い時を自慢する老害認定されるだけなので、ある意味、ドキュメントで残す程度に留める。時間はさほど残されていないという、切羽詰まってはいない。来月死ぬとかではない。

 責任の重荷に関して子供達の養育費はまってっくれない。貯金がある間は支払うしかない。ここは一旦減額をお願いしてみる事にした。後に判明するのだが医療費と病院の通院代がかさむ。

 弱さの重荷に関して、現状の肉体的にも精神的にもボロボロこれ以上の弱さはないと思っていた。しいていえば、病気で働けないという情けない気持ち、身体的が拘束器具でカッチカチで日常生活が送れないという苛立ちぐらい。弱さを開放するために友人に適度にオンライン飲み会等で積極的に見せしめ。あえて曝け出す事で弱さを吐露するようにした。ここはコロナ禍で丁度流行りだした時で都合が良かった。

ニヒリスト=引き籠もりオジサン 

 私は完全な重荷を開放した。はたからみたら、自堕落なタダの引きこもりオジサンになった。※拘束器具や歩行補助具で生活してるので厳密には違いますが。推論ですが、社会問題になってる5080問題、引きこもり、ニートというのは社会や自分に対して絶望したのではなく、自身が抱えてる重荷を開放してるだけなのかもしれないと思いをよせた。

耐え難い精神的苦痛が蘇る 絶望の業火

 責任の重荷を開放するために、数週間してやり残した養育費の減額を懇願する事になった。メールとSNSで連絡をした。情けないが、働けない事態になっている事を正直に話した。弁護士を通さないとやり取りができないという険悪な間柄ではない。むしろ、冷めきった夫婦期間とは違っており、旧友のような関係になっている。とはいえ、養育費を払いたくないだけで嘘や勘ぐりをいれられて子供との面会をシャットアウトされては溜まったものではない。事前に診断書を写真で送って予防線を貼っておいた。彼女は事務的ではあるが「お大事に」と一言添えて了承してくれた。 一安心。

 2週間程度経過した後、月に3,4回身辺連絡を入れている子供達にLINEを送った。互いに安否確認や悩み事があるかなど世間話などをほぼ一方的にこちらが入れてるのでした。※年頃なので深入りしない程度。

音信不通。。
ブロックされた。

下の子に至っては一切の連絡すらとれない。覚悟はしていたが養育費を減額されたらそりゃそうなるかな。あの精神的な苦痛が蘇る。

 離婚した直後に味合う、親権を持てない親が子供を失うオモイ。とても耐えられない精神的な苦痛。血が織りなす切り離せない親子の絆。毎晩、子供たちの顔や思い出が離れられない悪夢に襲われる。この世で一番のキツイ精神的なダメージ。子供に会えない辛さ。子を失う恐ろしさが親権を持たない親は耐えられないほどの苦痛を伴うのです。

 私は自分の弱さを改めて認識した。私は子供達を愛してやまない。頭で理解し頭ではわかって納得させるように努めても切り離せない。闘病生活で投薬には痛み止め成分が含まれているので眠気を催すはずなのに、この音信不通、LINEブロックで完全に不眠症になった。闘病生活がさらに苦しい地獄のような常態になった。闘病生活の苦しさよりも更に深い苦痛と絶望が襲う。

私はこの映画は見れない。見ないことにしてる。古典名作、名優、音楽全てが凄い。
(原題: Kramer vs. Kramer)は、1979年公開のアメリカ映画。
製作・配給会社はコロンビア ピクチャーズ。

もう、耐えられない。元妻に連絡して子供達の顔がみたいと懇願してしまった。運が悪い。丁度コロナが猛威を振るってたタイミング、学校が休校になるかどうかの瀬戸際だった。彼女は私の願いを丁重に断った。子供達を危険な外出をさせるわけにはいかない。

 失敗した。本当に身勝手な懇願をした。自己中心的であり、精神的な苦痛から逃れるために回りが見えないほど心が乱れていたのだろう。恥ずかしくなった。私は弱さは筋金入り、子供達だ。離婚してもそこだけは克服ができずにいたままだ。子供に依存してるわけではないと思う。それでも考えてしまう。それほどの業を背負っている。


拝啓 ニーチェ殿
 私は弱さを開放できずにさらに苦し時間を過ごすのでしょうか。
「自分で決断して強く生きる」ことって「自分の理性の正しさ」に絶対的な価値が」あると説いておられましたよね。

病気で弱ってる時、誰でも大事な人に会いたいものです。
子供達に会いたい。この自分の理性の正しさに絶対な価値がある。
あなたの教え通りでした。裏切られました。

絶望は血の濃さと愛情に比例して深いものです。


次回、いよいよ待ちに待った定期診断。
果たして骨盤、背骨はくっつくのか。
運命の選択を迫られるスナフキン(私)。畳み掛ける契約書類の数々。
骨は動かさなきゃ治る。サービス!サービス!
(思い出したくもない!)

※長文最後までお付き合い頂きありがとうございます。
体調次第ですがこれかもありのまま書き流していきます。
今後ともご贔屓に~(^o^)

■お詫び■
うまく纏めきれなくて申し訳ありません。駄文ですが雰囲気だけでも、絶望や虚無感にオチいった私が過ごした苦悩が伝わって頂ければ幸いです。都度、誤字脱字修正したりします。まず、書くに焦点があたっています。お許しください。

■重要■
※思い出しながら、トラウマ克服する思いで書き綴るだけでも正直シンドい。文字で伝えきれないのが悔しい。文才があれば。。。少しでも辛い思いをされてる方々に『私のケースはこうだったよ』とケーススタディとして参考になればと思っています。ノンフィクションですので色々詮索したら裁判沙汰になる可能性があるので実名や実際の病院などは濁すか伏せます。

■注意喚起■
心の病気を患ってる方々に関して、診療されてる主治医に相談、従ってください。人それぞれ抱えてる悩みや症例は異なります。心の健康状態は揺れ動くものです。ノンフィクションですので、投影による自殺念慮や心を病む事があります。ご自身が受け止めきれない場合は一旦、休憩または他の記事を読むなどして頂ければ幸いです。人の不幸は蜜の味ですが、貴方自身の心理的に作用してしまう可能性があります。責任は持てませんので悪しからず。

PS:元妻へ 
このNOTE記事発見しないように。
コロナ禍で大変だったろうけど、子供たちの事いつもありがとう。

ただのオッサンの備忘録ですが、応援コメントなど頂ければ励みになります。