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年老いた親をみつめ、私は開放されたのかもしれない。

思い出の侵食

平野啓一郎の小説、『マチネの終わりに』の中に、主人公の世界的クラシックギタリスト・蒔野聡史が次のように語るシーンがある。

映画も小説と変わらずいいです。視聴おすすめです。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

蒔野の言葉通り、

「未来(過去から見れば現在)が過去を変える」ことで苦しんでいる友人に複数出会った事がある。

それまで自分を毅然と叱っていた親が年を取り、衰えたその姿が自分の思い出を侵食していると感じる。



対面

昨日と本日2日間にわたり実家に用事があり、両親に対面しました。
冒頭に述べた映画のセリフが呼び覚ました理由です。

杖がないと歩行できない姿だけでなく、
言葉がうまく出て来ない父親に驚いた。
昨年いや半年ぶりに対面したが一気に老けた感じがした。

母曰く、最近父の言葉が出てこない症状もあるそうだ。実際、痴呆の初期症状に近しい症状なのだと。もともと、寡黙で技術畑の父は饒舌とは縁遠い人であったが、”しゃべる”事すらままならない父の姿に驚愕した。

いよいよ、介護問題も私に降り掛かってきた。

当面は母親が父の老化を受け止め、傍らで寄り添う形で理想の夫婦像をみせつけられた。私は離婚をして寄り添う妻を失ったが、両親は当面問題なさそうだった。

母「大丈夫だよ、まだまだ介護が必要じゃないし、元気に過ごしてるよ」と健気に言っているがどこか強がりな感じもした。

私は親の「老い」をどう受け止め、親と過ごした過去の思い出とどう付き合っていくべきか。もっといえばどう向き合えばいいのだろう。

周りの近況も同じ状況らしい


少なくとも私の周囲に、親の「老い」を話題にする事が多くなってきた。
または、親の体調管理、養老院に入居するなど様々だ。

例えば、友人Tの父親。
「親友の父親も運転免許を返納したよ、もう出前にはいけないよ~。事故っちゃダメ出しなー」

友人B
「おふくろも去年亡くなったし、いよいよ天涯孤独だよ。これからもスナフキン(私)よろしくな!」

友人C
「うちの親父は通所から介護にかわったんだよ、金かかるよー」

いよいよ、差し迫った問題が私にも近い事を悟った。


循環の輪の帰結は個の開放


幼い頃、大きく、神のように見えた親の姿を、その当時の親の年齢を追い越した今になっても凌駕できないでいることのほうが、よほど偏った状況であるはず。親が衰えたことによってそのイメージが崩れていくことは、むしろ歓迎すべきことではないか。悩むのではなく、むしろ幼い自分に対して強大な不可侵な領域であった父のように振る舞った親の実態が、実はこういう弱さも持っていた不完全な人間だったのかと知ることで、むしろ本当の自分を解放し実現することにもつながるのではないか。

死生観の輪廻

私がキャリアハイを向け、セカンドキャリアに入った段階だ。子供達ももうじき皆成人を迎え、親子の縁もほぼ薄れつつ皆無になってくるだろう。

私は寂しさを感じつつも、もう一歩踏み込んだ”死”をどう向き合う親子関係築きながら、お互いが開放されるのかもしれないとさえ思えてる。

親からの独立の次のステージは、
私の親から”親子からの開放”なのかもしれない。

息子、娘は私と同じように”父親、母親”のようにはなりたくない”と違う生き方をしてやるんだと自発的に思っているはずだ。そこには死が入り込む余地がない。そこが決定的に違う。

この循環の輪は、私(私と父親)の上世代では”老い”と”死を迎える”事を素晴らしいものにしていこうかと思う。

起点の個に集約し”開放”する仕組みが自然の摂理なのかもしれない。


■備忘録■
昨日の親との対面は正直ショックを超えて、
何か私に勇気というか何か得体のしれない特別な体験をした。

多分、一生忘れることはないだろう。
年老いた親をみつめ、自分と向き合ったのだ。
備忘録として残します。



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