すんどめ邸密室化事件

その頃すんどめパターソンは、賃貸マンションという名のボロ・アパートに住んでいた。
このアパートにも、高齢社会の波がじわじわと押し寄せていた……。

その夜。
すんどめは、仕事帰りに買った〔ゑびす プレミアム・モルツ〕350cc2缶を手に提げ、アパートの部屋を開錠し、ドアを引いたそのとたん、
(ん? ……)
ドアを引くわが手に逆向きの強い力が加わって、ドアが5センチメートルだけ開いたところでガン! と音を立て、びたりと止まったことに驚いた。
暗黒の室内と、ドアとのすき間には、ちょうどすんどめの胸の高さほどのところ、横一文字に金属の黄金色が光っている。
闖入者を防ぐための、ドアとドア枠とをつなぎとめる金具(「玄関用U字ロック」)がはたらき、部屋の主たるすんどめ自身を、その名の通り寸止めのところで拒んだのであった。
むろん、中にはだれもいない。
例の金具は、中にいる人間がドア枠の突起にひっかけておかなければ効力を発揮しないはずなのに、
(これは一体……)
だが、前々から予感めいたものが、まったくなかったとは言えない。

そもそもすんどめが2階のこの部屋へ引っ越してきたのは、実に3週間も前ではなかった。
前の住所は、なんと同じ物件の、1階である。
管理会社とオーナーとが共謀し、介護事業者と結託して、1階部分を高齢者のためのケア・ハウスへと徐々に変貌させ始めたのが、おおよそ1年前であった。
すなわち、1階には次々と高齢者を入居させ、介護事業者から派遣されたヘルパーが常駐する。
もともと稼働率はすこぶる低く、オーナーにまったくやる気のないボロ・アパートであったから、2階3階同様1階にも空き部屋が多くて、年寄りたちは順調に入居。
気がつけば1階で年寄りでないものは、すんどめただ1人となっていた。
(結果的に、居座ってしまったな。ま、一生住めると思えばいいさ)
ぐらいにしか考えず、のんきに過ごしていたすんどめのもとへ、
「すいませーん。まーたお年寄りが入るんで、2階移ってもらえませんか?」
管理会社がついに赤紙をつきつけてきたのは、1ヶ月ほど前であった。

(そりゃそうだろうな)
すんどめは納得した。
オーナーにしてみれば、われわれ通常の店子を置いておくよりも、1部屋でも多くケア・ハウス化したほうがもうかる。
そうすれば、むろん管理会社も介護事業者ももうかって、一味がウハウハであることは火を見るよりも明らかである。
だが、それだけに居座ることにはメリットがある。
移ってくれと言うのなら、それもやぶさかではない。
が、すべては条件次第というところだ。
そう思ってすんどめは、まず管理会社の薦めに従い、新しく移るべき2階の部屋というのを見せてもらった。
間取りと設備は完全に同じだが、なるほどきれいに清掃されており、これまで自分が住んできたことで垢にまみれた1階の部屋なぞよりも、格段にいい。
管理会社はすこぶる腰が低く、
「家賃ももちろん今までと同じでけっこうですし、お引越しにかかる費用は、ぜんぶこっちで負担しますんで」
これは悪くない話だ。
すんどめは、ダメ元で聞いてみた。
「原状回復と敷金はどうなるの?」
「いや、ご負担は一切おかけしません。敷金もそのままで」
「えっ、じゃあ、賃貸借契約をし直すというわけじゃないのね。たしかここ、出ていくときは敷金をいったん店子に返して、その代わり原状回復にかかる費用はぜんぶ店子もちって約定になってたよねえ」
「はい、契約しなおすということはしません。今までの契約をそのまま続けて、そこに一筆、部屋番号を変更する旨だけつけ加えて、オーナーさんとすんどめさんの署名捺印を頂くって形をとりたいんです」
これは、ますますもっていい話だ。
今日まで居座ってきて、ほんとうに正解だった。
正直、すんどめはこれまでの生活で、燃えさかる七厘の炭をじゅうたんへこぼして化繊を融かしてしまったり、IHヒーターにこぼれた汁をそのままにして、そこにまた新たな汁をこぼすということを繰り返すうち、IHヒーターそのものの火力をめっきり弱らせてしまったりと、色々やらかしている。
いつか出なければならないその日に、原状回復でどれだけ負担しなければならないのか、敷金の範囲ですむのかどうか、不安ではあった。
それが、すべてをほったらかしにして逃げてもよい、というのである。
新しい部屋の美しさに気をよくしたすんどめは、
「うん、いいよ」
即座に腹を決め、
「ねえねえ、そういうことならついでにさ、家賃下げてよ」
と言うのをすっかり忘れてしまった。

こうして、引越しの日がやってきた。
人生には不思議なめぐりあわせというものがある。
すんどめと管理会社とで打ち合わせた引越しの日は、偶然にもすんどめの妹・入れ食いパターソンの引越しの日でもあった。
入れ食いはこのほど結婚し、花婿と2人暮らしをはじめるべく、従来のアパートを引き払うことに、これは前々から決まっていた。
それにともない、不要になった家具類を兄のすんどめにタダで払い下げる(つまり、くれてやる)ということに、これまた前々から打ち合わせてあった。
それが急きょ、同じ日にすんどめ自身の引越しも行われることとなったのである。
にわかに忙しくなった。
自分自身の引越しの準備に加え、入れ食いパターソンが車で運んでくる払い下げ品を受け入れる態勢をも、整えねばならない。
(めんどくさいな)
そう思ったすんどめは、当日の朝まで何も手をつけなかった。

当日の朝が来た。
すんどめはスーパーと部屋とを2往復ほどし、段ボールを搬入。
とりあえず手をつけやすいものから、簡単に梱包し始めた。
すると困ったことに、この機会にぜひ捨ててしまいたい無用の物品が次々と現れ、ゴミ袋換算にして10袋を超えるゴミが出た。
この人物、ものを増やさないことで有名である。
コレクションも1年ほど前にかなり売り払ったし、家具・雑貨類も一度所有してしまえば物持ちがいいだけに、できるだけ買わない方針をつらぬいてきた。
にもかかわらず、これだけのゴミが出るのである。
すんどめは、大量廃棄社会の行く末に思いをはせた。
と、そのうちに入れ食いからの払い下げ品も到着。
次いでいよいよ業者が来た。
業者と言っても、管理会社の社長と社員1名とが、すんどめの引越しをタダで手伝いに来たというほうが正確である。
「あ、ここにあるやつ、もう運んでいいっすね?」
「はいはい、はーいはい」
すこぶる話が早かった。
すばらしきマン・パワーで次々と、梱包してあるものが2階へと消え去り、梱包していないものまで消え去った。
すんどめは、いまだ手をつけていない洋服箪笥に関し、
「ねえねえ、相談なんだけど、これ、引き出しごと抜いて、2階の同じ箪笥の引き出しと入れ替える形でさ……」
「そのまま行きますか」
「行ける?」
「行きましょう行きましょう! バッシバッシ行きましょう!」
管理会社、なかなかに使えるのである。
「ごめん、これ……」
すんどめが差し出した包丁さえも、
「ええ、大丈夫ですよー」
抜き身のまま2階へ持って行ってくれた(「大丈夫」か?)。
次から次へと運搬され、2時までにはすべてが終わっていた。
ここですんどめは、最大の懸念事項をついに口に出した。
「あのね、ゴミなんだけど」
すると管理会社は、
「いやもう、捨てちまうしかないでしょう。うちで捨てときますから」
「えっ、じゃあ、下に残したまんまでいいの?」
「いいですよいいですよ」
かくして世界で一番楽な、かつ世界で一番ロー・コストな引越しは、あっけなく幕を閉じた。
かかった時間は正味6時間。
かかった費用は、フローリングを掃くクイックル・ワイパーの購入費800円のみである。

引越しを終えたすんどめは、何はさておき、すぐに新居のとなりのとなりにある部屋の呼び鈴を押した。
この部屋、くらやみDJ(仮名)の住処である。
くらやみDJは、音響エンジニア兼クラブDJで、しかも入れ食いの元彼氏である。
何の因果かくらやみDJ、入れ食いと別れたあと、家賃の安さに目がくらみ、この稼働率最低なボロ・アパートの2階へ越してきた。
したがって、すんどめにとって最も近所に住む知人となったわけだが、今回のすんどめの引越しによって、もっともっと近所になったわけである。
すんどめは、まっさきにくらやみDJにあいさつをしたかった。
が、いくら呼び鈴を押してみても、
(留守かな……)
恐らく、仕事が忙しいのだろう。
このあとすんどめは、毎日のようにくらやみDJの部屋を訪ね、そのたびに留守と分かって引き返すということを、2週間ほど繰り返す。
なにやら、長期の出張にでも出ているのであろうか……

新生活は、思いのほか快適であった。
だが、細かなボロも見え始めた。
やはり、そんなにうまい話があるわけはなかったのだ。
たとえばトイレに、便器を磨くためのブラシがない。
「まあ、いっか。それこそ前の部屋から持ってこよう」
すんどめは、まだ年寄りが入居していない、したがって鍵もかかっていない古巣へ無断侵入。
なつかしのトイレをのぞいて見てみたが、部屋には件の10袋のゴミがいまだ残っているにもかかわらず、便器ブラシだけはご丁寧にも忽然と消えていた。
そしていちばんの問題は、廊下に通じるドアを、5センチメートルほどだけ開けてそこで止め、闖入者を水際で防ぐための金具、いわゆる「玄関用U字ロック」が、ひじょうにユルユルだったことである。
すなわちこの「U字ロック」、ふだんはドア側にきっちり折りたたまれ、使いたいときにだけこれをドアの枠側に手で回し、突起にかけて使うべきものである。
それが、ネジでもゆるんでいるのであろう、きっちりと折りたたまれず、ふだんからフラフラと浮いたり戻ったり、ドアの開閉の勢いに合わせて動いてしまう。
まるでそよ風に揺れる旗のようなのだ。
すんどめはこれも、
「ま、いっか。死ぬわけじゃなし」
知らぬ顔の半兵衛を自分に向って決め込んでいた。
このU字ロックが、今宵の事件を引き起こした文字通り引き金になろうとは、だれが予見したであろう……

プレモル2缶を持ったまますんどめは、自室の前で呆然となった。
自分で自分の部屋に入れないのだ。
U字ロックがあまりにユルユルであったため、出がけにドアを閉めたとき、恐らくはその勢いが強すぎて勝手にひっかかり、中に犯人がいないにもかかわらず、すんどめを閉め出してしまったのであろう。
指をすき間にさしこみ、ひっかかった金具をはずそうと何度も試みたが、もとよりそうした場合のセキュリティのための設備である以上、そんな抵抗は無駄に決まっていた。
すんどめは、管理会社に電話をかけた。
が、この管理会社、営業時間外に電話に出たためしなどただの一度もなく、やはりこのときも例外ではなかった。
さて、困ったことになった。
管理会社が電話に出るであろう明朝9時過ぎまで、どこで夜を明かそう。

ひとつ、職場へ戻って、そこで寝る
ひとつ、やはり何らかの方法でこのU字ロックをはずし、堂々と自室で寝る
ひとつ、くらやみDJに泊めてもらう
そしてもうひとつ、最低な選択肢だがお金をかけ、ホテルに泊まるか夜の街へ繰り出して徹夜で飲む

「くらやみDJか……まだ出張から戻ってないだろうな」
半ばあきらめながらも、彼の部屋の呼び鈴を押してみた。
するとどうだ。
「は~い、どなたッスか~」
眠そうなくらやみDJの声が、砂漠に湧きだすオアシスのように廊下に響き渡った。

2人は久々の再会を喜び合った。
すんどめの引越しを初めて告げられたくらやみDJは、たいそう驚いた。
ここのところ、くらやみDJは出張こそしていなかったものの、イベントのPAの仕事で異常に忙しく、ほとんど家に帰っていなかったこと、それに対して今はド・フリーになったことをすんどめへ告げた。
すんどめはまず、2缶のプレモルをくらやみDJの冷蔵庫で冷やしてもらい、次いで今置かれている状況を語って、何かよい方法はあるかたずねた。
「うぃーっす。見てみましょ」
くらやみDJは嫌な顔ひとつせず、すんどめの部屋のU字ロックと自分の部屋のそれとを、何往復かして見比べ、ドライバーを使って、金具を止めている突起の取り外しにかかった。
前代未聞。
自分で自分の部屋へドロボウに入る大作戦の幕は、こうして切って落とされたのである。
すんどめはくらやみDJのスマホを照明代わりに彼の手元を照らす。
くらやみDJはその灯りを頼りに、ドライバーを操る。
なにしろ指も第2関節ぐらいまでしか入らない狭さであるため、ドライバーの柄を自由に操ることができない。
が、そこはそれ音響エンジニアである。
短いドライバーを、垂直な角度から回すレンチのようなもの(名称が分からん)を、ちゃんと常備しているのである。
このレンチをたくみに操り、突起をはずそうとたくらむくらやみDJ。
ところが、いかにレンチといえども、突起のビスにうまくはまらない。
万事休す!

と思ったとき、くらやみDJはもう一度自室のU字ロックをよく観察し、その仕組みを分析し直した。
「ぎゃ~くてんのはっそ~、ぎゃ~くてんのはっそ~」
踊り、歌いながら戻ってきたくらやみDJは、突起ではなく、金具そのものとドアとを止めている、ドア側のビスをはずす作戦に転じた。
それはそれは、長い時間の旅であった。
しかし、たとえ遠くてもゴールはもう見えている。
すんどめの照らす灯りの下、額に玉の汗を浮かべ、粘り強くくらやみDJはレンチを回し続けた。
1本、2本とビスがはずれていく。
が、ビスは全部で3本である。
果たして最後まではずしきれるのであろうか。
こんなときに、入居中の老人が廊下を通りかかったらどうなるか。
まちがいなく、2人組のドロボウとみなされ、通報されるであろう。
老人の出てくるのが先か。
最後のビスがはずれるのが先か……

2人のドロボウは、勝った。
あのいまいましい金具がカラリン……と落ちると同時に、頑固だったドアは大きく開かれ、部屋の中の漆黒の闇が、2人のドロボウを温かく迎え入れた。
「へ~い、いっちょあ・が・り~」
「ありがとう! これからくらやみちゃんの部屋でいっぱい飲もうよ!」
すんどめはくらやみDJに、プレモルの1缶を進呈。
2人で楽しく飲んで語った。
そのときくらやみDJが、妙な話をすんどめに告げた。
「いや~、こないだッスね、管理会社が俺に、家賃たまってんぞコラってイチャモンつけてきたんスけど、通帳確認したら、払ってんスよ俺。しかもいきなり保証人の姉のほうに行きやがりましたからね。俺、電話して、おい責任者出せコラってね」
なんでもそのときは、責任者不在により話は流れたらしいのだが……
「俺、ふ~ん、やつらの狙いナニかな~、ふふ~んふ~んって考えたんスけどね~。それで思ったのは~、も~ここ、2階も3階もぜんぶ1階のやつ入れて、もっともうけようとしてんじゃね? って思ったんスよね。だから、よ~するにイヤがらせして、追い出しにかかってんじゃね? ってね」
なるほど、ありそうな話だ。
言われてみればすんどめも引っ越してから数日後、払ったはずの家賃を滞納と言って催促されている。
「いや~それならそれでいいんスけどね~、それだったら分かってんだろうなてめ~ら? って感じっスよね~ふふ~んふ~ん。新しい引越し先の敷金・礼金てめ~らで持って、ついでに引越しの費用もぜ~んぶ出せやコラ~てんすよね~。ふふ~んふんふ~ん」

ますます面白くなってきた。
かくしてすんどめとくらやみDJによる居座りデュオのパフォーマンスは、新たな局面を迎えたのであった。

拙著『シェーンの誤謬』 ここから購入できます
https://www.amazon.co.jp/dp/B07FYT4Q65/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?