漫画みたいな毎日。「心を感じ、心が動く。」
以前、平田オリザ氏の「わかりあえないことから」を読んだことがあった。
日々、様々な価値観の人と過ごしているのだけれど、あたりまえのことだが、本当に人の価値観とはそれぞれなのだなぁ、と実感する。
勿論、自分の価値観とは、真逆の価値観に出逢うこともあるわけで、そんな時に努めて冷静に耳を傾けている自分がいる。
へぇ、そうなんだ。
なるほど、そう考えているんだね。
共感するときもあれば、そうでないときもある。
正確に言うなら、頭では理解できるけれど、心には響かない。心がぴくりとも動かないことがある。
相手の事情や環境や、バックグラウンドを想像したり、今に至る経緯などは、頭で理解できる。人それぞれ、日々の暮らしの中で色々なことがあるよね、と。
しかし、相手の中に「情」のようなもの、「心の動き」のようなものがなかなか見えて来ない時、私にその時には感じられないだけなのかもしれないけれど、そんな感覚に陥るときに、自分の中での着地点が見つからないことがある。
人が暮らしの真ん中に何を置いているかということは、本当に本当にそれぞれだなんだなぁ・・・と思う。
仕事であったり、
趣味であったり、
暮らしそのものであったり、
きっと私の思いつかないことを自分の暮らしの真ん中に置いている方も沢山いらっしゃるのだろう。
時に、大人だけが真ん中置かれている状況を目にすることもある。それも、それぞれの選択だけれど、子どもはその輪の中に入っていないことすらある。
大人の色々な事情があることも、どうにもならない状況があることも、まず、頭では理解できる。でも、頭で理解して終わり、となってしまうことが、時にある。
苦しい状況の中、心を使って食いしばり、踏ん張っている人もいる。人の「心の動き」を感じる時、私の心も動いていく。
どんな事柄であっても、そこに「心の動き」、その方向にもよるのだけれど、その動きが感じられない時には、私の心は面白いくらいにぴくりとも反応しない。自分でも驚く程に頭だけで理解していて、心が何処かに置き去りになっている。
その心地の悪さよ!
私たち家族にとって、今、暮らしの真ん中にあるのは、やはり「子どもたち」の存在だ。子どもたちが暮らしの真ん中にいる。それが私たちにとっては、自然な流れであり、学び。
〈今〉はそうであって、子どもたちが成長と共に巣立っていけば、また何を真ん中に置くかは変わってくるのだろう。
私と夫の間には、「大きい人が小さい人に合わせた方が、暮らしがスムーズになる」という共通の認識がある。
小さい人を大きな人に合わせるようにすると、何処か無理が生じると感じているから。
小さな人たちは、まだまだ経験という点では大きな人には及ばない。それは、あたりまえで、良い悪いではない。
真ん中になった子どもたちは、大きい人になったとき、きっと自分より小さな人を真ん中置くことができると思うから。
そうやってぐるぐると循環していくと私は信じている。
だから、私たち家族は、小さな人たちを暮らしの真ん中に置く。
頭も身体も、心も、たくさん、たくさん、使って生きていきたい。
しんどいときもあるけれど、そうやって生きていきたい。
強く、でも、しなやかに。
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