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不可侵を掲げて逃げておいで

10秒を、ゆっくりと数えた。

前の人のトイレは思っていたよりも長くて、10秒なんかじゃ全然足りなかった。だからもういっかい、10秒を数えた。だって、カウントダウンが終わってしまうまでにトイレが空かなかったら、わたしはあの人とうまくいかないことになっていたから。心の中で、わたしがそう決めていたから。


寝ても覚めても、見えない声にうなされている。この名無しの発言によって伸び縮みする現実と、理想の自分の間に。才能の無さ、性としてしか愛されない、または既にその価値すらなくなってしまったわたし。そしてどこまでも浅はかに見える他人、ルービックキューブのように多面的なはずのひとりの人間の浅はかさをクローズアップしてしまう、視野の狭い、またわたし。わたし、他人、わたし、他人、わたし。世界にはそのふたつしかないんだ、と幼い頃誰かが“わたし”に言った。

SNSは虚構の墓場だ。でもわたしはこんな夜に見るものは見て欲しいとばかりに森の奥底に埋められた自慢話であって欲しくない。選民思想で選ばれなかった人たちの秘密結社のような、シェルター。わたしの文章がそうであって欲しいと切に願う。そう、これは祈り。誰のことも傷つけないと誓いを立てたものだけが、安らかな眠りを保証される楽園。それがここであればいい。わたしは何も望まない。否、何も求めないことを望む。平和と平穏は違う。だから笑う。平穏を求めて。だから泣けない。どこにも本物がないから。だから求める。沸る血を、透明の熱を。文字以上でも文字以下でもないこの一瞬を閉じ込めておきたくて、今日も綴る。わたしにはわたしに委託された役目が重すぎる。


インターネットで検索しても出てこない歌詞。カットされたワンシーン。誰の目にもつくことのない下書き。密かに合わせた、唇と唇の端から溢れたアルコール。ちりりと冷たくなったコンクリートに落ちる煙草の灰。好きだったけれどもう変わってしまったあの人にまた逢えたなら伝えたい一言。その合間を縫って縫って拾い集めたものたちが、“エモい”なんて、わたしは絶対許さない。世間が認めても、最後まで認めないから。だから今日も、戦う。淡くて消えやすい言葉に責任なんてなくて、ぼんやりと信号に従って当事者意識の欠けたこの世を生き抜くのは簡単なことじゃない。才能がなくてもできるかな。あの日メデューサの瞳に射られて、固くなってしまったこの心でも。ただひとりへのモールス信号のような点滅。愛しい瞬間は帯のように連なり、次の季節へとまた稚拙なわたしを誘うのでしょう。











2021.04.23

すなくじら











2020.04.23

すなくじら

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