音楽語の部屋(おんがくごのへや)

ーーーアラン・チューリングの永遠なる眠りへ。

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閉ざされた真っ白い部屋は、手紙一枚分の隙間だけ開かれていた。


なんの変哲もない世界に、その部屋はひっそりと佇んでいた。
四方を白い壁に囲まれただけの空間。
部屋という言葉で定義できるのかもわからないような、質素な外観。
中は見えない。入り口は存在しない。どんな人間も、その部屋に入ることはできない。
耳を澄ませたところで、中からは物音ひとつ聞こえない。
誰一人として、その部屋の内側に何があるのかを知らなかった。

あるいは、その空間には何もないのだと論じる人もいた。
誰も認識できないならば、何もないのと同じだ。そう考えたほうが、物事はよっぽど容易くなる。
部屋は、真っ白な空間である以上の何物でもなくなった。

まるで、四角形に切り取られた空白がそこに鎮座しているかのように。
神様が、要らないからっぽの箱を無造作に置いていったかのように。
芸術家が手を付け忘れた、作品の余白部分のように。
その部屋はただ、そこに存在しているだけだった。

外の世界の人間は、やがてその部屋に興味をなくした。
価値の見いだせない場所に執着する理由も、意味もなかった。

そうして、真っ白な部屋は一人ぼっちになった。



けれど、そこにはたった一つの隙間があった。
小さなポストのような、慎ましやかな入り口。
目を凝らさなければ、誰もが見落としてしまうほど小さな、世界との境界。
その空間はひっそり、外側と繋がるのを待っていた。



ある日。
誰もが興味を持たなくなり、誰も寄り付かなくなった場所を、たった一人の少年だけが求めた。

少年は決して強くはない人間だった。

引っ込み思案で他人に意見が言えない。それなのに感受性が豊かで、いつも行き場のない思いを持て余していた。

少年は他人のいない場所を探していた。そしてその空間の前にたどり着いた。

少年は安堵した。
ここには、外の世界の他の人間は誰もいない。
自分の思いを理解できない他者と会わなくていい。
不必要に心を傷つける必要もない。

誰もに見落とされるその少年は、だからこそ、誰もが見落とすような隙間に気付くことができた。

少年は手紙を書いた。
嬉しいことや悲しいことがある時、それなのに誰にも伝えられない時、彼の思いはただ一か所、手紙一枚分の隙間に投函される。

その空間から手紙が返ってくることはない。
誰かが対話をしてくれるわけでもない。
その閉ざされた世界の中に、どうやら言語は存在しないらしい。

だから、言葉の代わりに音楽があった。

そこから聴こえてきたのは、美しく透明なピアノの音色。
箱の中の誰かが弾いているのだろうか。
それとも、もっと別の場所から聴こえてくるのだろうか。
少年は何もわからなかった。けれど一つだけわかっていた。
その音はいつだって、手紙に綴った少年の心情を、何よりも的確に表現している。
それだけはわかっていた。それが全てだった。

ある時は、年相応に夢や情事に高揚する少年の、あどけない姿を。
ある時は、穏やかで雅致のある少年の、落ち着きた振る舞いを。
ある時は、傷ついてもなお慈愛を失わない少年の、繊細な哀しみを。

いつだって音色は、少年を少年以上に知っていた。

他の誰も信じなくても、誰も聴こえなくても、少年は信じていた。
この箱の中にはきっと、優しい人間がいるのだ。
少年の感情を誰よりも理解していて、それをいちばん美しい音色に変換してくれる、そんな素敵な"誰か"が、きっと閉ざされた世界で待っているのだ。

誰にわかってもらわなくてもいい。箱の中の誰か、名前も知らない誰か、その誰かが自分のために奏でる旋律だけで、彼は満たされる。

だから少年はまた、手紙を書いていた。

今日も手紙を送ります。 
 あなたが誰よりも僕のことを知っているから、
      僕は幸せでいられます。

閉ざされた部屋が、優しい言葉で満たされていく。

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閉ざされたその空間の中には、少女と一台のピアノ、そして一冊の大きな曲集だけがあった。

いつから自分がここに居るのかもわからない。
どこから来たのか、どこへ行くのか、彼女は何も知らない。
覚えているのはピアノの弾き方だけ。色も味も匂いもないこの部屋で、彼女にできることはそれだけだった。

それなのに、少女はピアノを弾かない。
ピアノの弾き方しか知らない彼女は、だからと言ってピアノが弾きたいわけではなかった。
彼女は待っていた。彼女がピアノを弾くためのファクターを。外から届く、たった一つの信号を。
色の無い世界で、ひたすらに待っていた。

そして今日も手紙が届く。

送り主もわからない、どこから送られてきたのかもわからない。用件だって皆目見当もつかない。
それでも彼女は手紙を開く。それが、彼女と彼女以外を繋ぐ唯一の懸橋だから。

送られてくる手紙に書かれた言葉、彼女にはたった一つの文字も読めない。
彼女は文字を知らないのだ。いつからそうなのか、初めからそうなのか、それすらもわからない。手紙の内容が、少しも理解できない。
だから彼女は決まって曲集を開く。その中から、手紙に書かれた文字と同じものを、丁寧に探す。

やがて彼女はそれを見つける。
そして、その側に書かれた譜面を、そっと撫でた。

曲集の中には手紙と同じ文字があり、対応する楽譜がある。
たぶん、それが彼女の生まれた理由だった。

彼女は椅子を引く、譜面台に今日の音をセットする。
少しだけ間をおいて、それから鍵盤にそっと手を乗せた。

宇宙から降ってくる音色を、零さぬように十本の指で受け止める。
白と黒の二つだけで構成された世界に、彼女が沈んでいく。


<#FFFFFF>
<#000000>


そうしていつものように、音を奏でた。

ある時は、あどけない子供の見る甘美なトロイメライを。
ある時は、優雅で高潔なメヌエットを。
ある時は、嬰ハ短調の感傷的な夜想曲を。

少女は何もわからないままに、様々な感情を詠った。
誰が、何のために、どんな思いで手紙を書いたのか、少女は知らない。
その手紙の内容と、彼女の手から紡がれる調べが符合しているのか、少女は知らない。
少女の曲で、誰かが不幸になるのかもしれない。

この旋律は、手紙の主に届いているのだろうか。
そんな、一番大切なこともわからない少女は、それでも手紙を待ち続ける。
ただひとえに、返事を書くために。
伝わらない言葉で書かれたお手紙を、伝わる保証のない音楽で返すために。

言葉と音楽の、歪な連弾。そのためだけに少女はここにいる。

だから今日も、彼女は手紙を受け取った。
そして返事をする。ピアノに想いを乗せる。

お手紙ありがとう。 
  わたしは君のことを何も知らないけれど、
       君が幸せであることを願います。

外の世界が、優しい音色で満ちていく。













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