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『建築をめぐる三人家族の物語』

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これまで、「家の構造」や「間取り」がいかに人間の精神や行動に、そして家族の暮らしに影響を与えるかを、著書をはじめ様々な機会を通してメッセージを送ってきました。  しかし、これか…
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#小説

建築をめぐる三人家族の物語

建築をめぐる三人家族の物語

第24話(最終話) 再生
 咲子がいつもの時間に起きた時は、武夫はすでに出勤した後だった。テーブルの上には、昨夜の小児科学会のコピーと、眠れないままワインを飲んだグラスが、朝の日差しの中で白いテーブルクロスの上に影を落していた。

 そしてそのグラスの横に、武夫の字で書かれた一枚の白い便箋が置かれていた。そこには端正な字で、「夕焼けには間に合わないけれど、今日は七時までに帰って来ます」とだけ書かれ

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第23話 幻想
咲子は会話が途切れたまま、ぼんやり窓を見つめていた。雨はいつの間にか止んでいた。窓ガラスは雨で埃が流れ落ちたのか、遠く暗闇の中にいつもより多くの街の灯が見えた。遠く三浦半島の方に目を移すと、月が出ているのか、暗い海の中で波が光っていた。街の灯ひとつひとつには灯の数だけ家庭があって、その数の分だけ温かな幸せな家族があると思った。そんな事はあり得ない話だと思うが、今の咲子にはそう思えた

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第22話 原因長野の父親に、マンションを購入し引越しをしたと報告したら、京都の方からお金を出してもらったのかと露骨に言われ、しどろもどろの返事をしたら、父親は状況を察したらしく、
「武夫、長男であるお前が女房の実家に金出して貰って家を買ったなんて、田舎に来て親戚や周りの人に絶対に言うな」それだけ言って、電話を切ってしまった。

父親は長男である自分に何を言いたいか、よく分っていた。このショックは大

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第21話 他人の顔
光が自分のこぶしでドンドンと床や壁を激しく叩くようになったのは、いつからだろう。そればかりではなく、光、光と呼んでも振り向かなかったりあまり言葉も話さなくなった。また、以前のように目を輝かせて笑うこともなくなった。咲子は、そのうち治るだろうとあまり気にしていなかったが、床を叩く回数や叩く時間も長くなって、さすがに心配になった。一度医者に行こうと思ったのは、買ってきた育児書を読み

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第20話 人工の街並
様々な思い違いや思惑違いによってストレスは蓄積された。

ストレスのはけ口は、まずテレビ。 朝起きてテレビのスイッチを入れて武夫を送り出した後は、光に教育用のビデオを見せる以外は、殆んど一日中つけっぱなしにしていた。先生の言う通りだった。そして、パソコンのネットオークションと携帯メール。これは光の衣類をオークションで買っているうちにはまってしまい、昼ごはんを与えるのも忘れるほ

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第19話 マンションには子どもがいなかった
また、ある家族にとって取るに足りないこと、全く気にしないことが、乳幼児をかかえこれから子育ての大事な時期を迎える家族にとって、大きなマイナス要因になってしまうこともある。次の問題においても咲子にとって不運だった。

このマンションは購入価格からして高級マンションに属しているので、入居者の多くは四十代後半から五十代だった。つまり住んでいる多くの世帯は、買い

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第17話 何が間違いだったの?
咲子は、もうこれ以上耳をふさいで聞きたくなかった。「やめて下さい」と叫びたかったが、必死で我慢し三つ目の原因の話を待った。

「三つ目は、これが一番やっかいな問題でもあります。光君が名前を呼んでも反応が鈍かったり、話しかけても話さないというこの状態は、恐らく公園に連れて行っても、友達と一緒に遊ぶことすらできない状態ではないでしょうか」

 確かに光は、友達と一緒に遊

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第4話 新婚の家  
この新入社員歓迎会を機に二人は一ヶ月に一度の割合で会い、食事をしたり映画を見たり、日曜日には鎌倉などにも足をのばした。

鎌倉に行った時は、必ず夕方には「江ノ電」に乗って稲村ヶ崎で降り、七里ヶ浜から伊豆半島に沈む夕陽を見るのが定番となった。

浜辺にある大きな石に腰をかけて、陽が沈むまで黙って見つめていた。そんな時間と空間を幾度も共有するにつれ、もしかしたら結婚するかもしれな

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第3話 記憶の原風景
武夫と咲子が始めて出会ったのは、武夫が就職して四年目に咲子が新入社員として同じ総務課に配属され、近くのイタリアンレストランでの歓迎会の時だった。

咲子は部長からあいさつを促され緊張した顔で、「上田咲子と申します。京都で生まれ育ちました。京都しか知らへん女どす。東京の会社に就職するのは両親は反対どしたけど、なんか東京の空気を吸って一回りも二回りも自分を大きゅうしたいと思いまし

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第2話 町屋の家
咲子の生まれ育った家は京都市上京区西陣で、両親は高級織物で有名な西陣織を扱う小さな問屋を営んでいた。

西陣は江戸時代以前においてすでに一つの機業地として存在し、幕府の保護もあり、絹織物の産地として、歴史と伝統は古く、絶頂期には五千軒もの織屋があったという。

近年においても、戦争中及び戦後の沈滞期はあったものの、日本の復興、高度成長と共に西陣は益々隆盛を極めた。

その時代に咲

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