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小沢健二「So Kakkoii 宇宙 Shows」〜奇跡に帰ろう!

小沢健二さんのライブツアー「So kakkoii 宇宙 Shows」の初日(パシフィコ横浜)と最終日(東京ガーデンシアター)に行ってきた。
2020年に予定されていたツアーが、まさかの疫病蔓延で2度の延期を経て、ようやく実現。
2年前はチケットを取り損ねて悔しい思いをしていたが、誰かが手放したチケットが私の元にめぐってきてくれた。元の持ち主の思いも携えて、全身全霊で楽しんできました。

せっかく2回も小沢さんと歌って踊る機会を得られたので、振り返って文章に残しておきたい、おかねばと思う。1ファンのたわごとになること必至ではありますが。

ロビー展示

オザケン・ファンとしての経歴

小沢健二ことオザケンがポップス界に王子として君臨していた90年代、その全盛期の活動を私はリアルタイムでほとんど見ていない。家庭の事情で芸能界に関わるあれこれと無縁の、禁欲的な青春時代を過ごしたせいで、若くて元気なオザケンと出会っていないのだ。
私がオザケンにハマったのは、彼がとっくの昔に引退して、外国に行ってしまった後のこと。友人からもらった「ライフ」のMD(かつて、そんなものがありました)を聴いて、一瞬で恋に落ち、すぐに名前を検索するなり、現在、活動停止中であることを知り、大ショックを受けたものだった。
戻ってきてくれて本当にありがとう。

優れた小説のようなライブ

小沢さんの歌は「文学とポエム」にあふれてる。
手の届く日常にひそんでいる哲学や詩情を、両手のひらですくいあげるように歌にしてくれる。
その意味で、小沢さんは歌手であると同時に、文学者であり詩人だ。
一つひとつが短編小説のような歌の連なりから成るライブは、終わったとき、優れた小説を読み終えたような充足感に満たされる。そして、ライブ前とライブ後で、確実に自分の中の何かが変化している。
そんな体験をさせてくれるライブを創作してくれる小沢さんに、私は無限に感謝する。

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ポエトリー・リーディングが魅力のオザケン・ライブ

小沢さんのライブにはポエトリー・リーディングが付き物。
歌の前に、彼の想いをのせた独り言のような詩を読み上げるのだ。
その内容が次に歌う作品への導入になっていて、聴き手の心の中に豊かなイメージやストーリー性が生まれ、歌詞の厚みが増してゆく。
小沢さんの思考の中身、ひいてはライブのテーマを読み解くのがまた楽しい。

今回、再認識したのは、小沢さんの「年をとること、生まれて育って死んでゆくという人間の営み全体に対する肯定感」だ。
20代の歌にも、50代の歌にも、等しくそれはある。
それを胸に、「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわないように」や「この線路を降りたら全ての時間が魔法みたいに見えるか?」などというフレーズを聴くと、刻々と過ぎてゆく時間への愛おしさが胸にあふれてくるのを感じる。

それにしても「いちょう並木のセレナーデ」の黄金がかったライティングは美しかった。あの頃の自分はこんな美しい世界にいたのかな?と、青春時代が脳裏に甦ってくるようだった。そして、「過ぎてゆく日々を踏みしめて僕らは行く」というフレーズに、涙せずにはいられなかった。

過去の中の未来と、現在の中の未来

ポエトリーでは、小沢さんの「気づき」が共有され、その内容が「ああ、そうかもしれない」と腑に落ちたとき、これまで自分が持っていた価値観を揺り動かされて、不思議な感覚に陥る。
「過去の中には未来が含まれている。つまり現在の中にも少しだけ未来は含まれている」と小沢さんは言う。
時の流れをたんなる連続性として捉えるだけでなく、「瞬間」を取り上げて、その中を満たすものに目を凝らす。まるで「一瞬の時」をプレートに乗せて顕微鏡で覗くように。

「離脱」と「戻る」

今回のライブ全体を通してのポイントが、何度も繰り返された「離脱」と「戻る」の合図。
小沢さんが「離脱!」と叫ぶと、演奏も小沢さんの動きも、超ゆっくりになる。そして「戻る!」と叫ぶと、何事もなかったかのように元に戻る。
「離脱」という合図には、しめつけられていたものから一瞬離れ、いいことからも悪いことからも解き放たれようという意味があるのだと、小沢さんは説明した。
そして、平常スピードに戻ったときに、動きが格好悪くなるかもしれない、それがいいのだと(笑)。

「撫でる、撫でる、大丈夫」

「失敗がいっぱい」という曲の前に、こんなポエトリーが読み上げられた(記憶にある限りなので、完全に正確ではありません)。

誤解はするもの、されるもの。
この会場にも、取り返しのつかない失敗をした人は多々いるだろう。
今もその失敗の傷跡は疼くかもしれない。
でも、涙に滅ぼされちゃいけにゃい!
毎日には治す力がある、人には治す力がある。愛は直す。愛は復活させる。
意識しないかもしれないけど、人はお互いに治し、治されて生きている。

by Kenji Ozawa

そして歌に合わせて、「撫でる、撫でる、大丈夫」と(心の中で)言いながら、前の人を撫でているような、後ろの人から撫でられているような、そんなダンスを踊る。
しばらく前に、人生を左右するような手痛い失敗をして、今も立ち直れずにいた私にとって、この歌とダンスは救いをもたらすものだった。
不幸な状況にあるとき、人は惨めな思いを抱えて孤独に陥りがちだけど、実は、近くや遠くにいる誰かが自分を支えてくれている。もしかしたら、誰かが自分に「励ましの念」を送っているかもしれない。そう思うだけで、狭まっていた視野がぐんと広がる。
多分、小沢さん自身が、遠くにいる誰かのことを励ましたいと思っているのだろう。その優しさと切実さが伝わってきた。

「彗星」に込められた、「生活に帰ろう」の意味

小沢さんはライブの最後で、カウントダウンから「生活に帰ろう」と告げて、ライブを終える。
2016年のライブのときは「日常に帰ろう」だった。会場から「やだー!」の声がかかり、小沢さんがそれに対して「やだ? でも、だいじょうぶなんですよ」みたいな返答をしていたことが記憶に残っている。
そのときの私は自分の「日常生活」を忌み嫌っていて、そこから逃避することばかり考えていた。だからこの最後の呼びかけを、「何がだいじょうぶなの?」と、少しも好意的にとらえられなかった。「何て残酷なことを言うんだろう」と。

夢のような、魔法のような時間がその合図で断ち切られ、退屈で平凡な毎日に突き落とされた気分だった。まるで、真夜中の12時を過ぎた途端に元の姿に戻ってしまったシンデレラのようなみじめさ。

でも今回、ラストとアンコールの最後に2回歌われた「彗星」の歌詞の中に、その言葉に込められた意味を見つけた。

今ここにある この暮らしこそが
宇宙だよと
今も僕は思うよ なんて奇跡なんだろうと
自分の影帽子を踏むように
当たり前のことを
空を横切る彗星のように見てる

「彗星」by Kenji Ozawa

毎日の生活や日常は奇跡にあふれている。それに気づいてほしい。生活に帰るのは、自分の奇跡と向き合って、その喜びを感じることなんだと、小沢さんは歌っている。

今ここにあるこの暮らしは、なんて素敵なんだろう!

小沢健二のライブに行けば、誰もが何かしら小難しいことを考えずにいられなくなる。それは、どの歌にも、小沢さんが普段の生活で感じたり考えたりした、疑問や思想、喜びや悲しみが詰め込まれているから。愛しい生活から生み出された、愛しい言葉の数々。
それらは他の誰のものでもない、小沢さんの言葉であり、生き方だ。
その姿に私たちは夢中になる。誰に何を言われようと関係ない、自分の信じる思いを自由に力強く発信する、そのあり方を「何てかっこいいんだ」と思い、魅了されてやまないのだ。

初日を終えた夜、会場の外で


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