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母と私を悩ませた摂食障害。治るときは突然に。きっかけは何気ない会話。

半年ほど東京で過ごした母は、体重28kgから34kgになっていた。
もともと細い母は、これぐらいがちょうどいいと言い、家も心配だし一旦帰るといって年明け前に山口へ帰って行った。

しかし「病院に通っても一緒やな」と感じた母は、田舎に戻ってからは内科も心療内科にも通院しなくなってしまった。

”私”と一緒にいたこと、家で話したり家事などやることに追われていたことで気が紛れたことが大きかったと本人は振り返る。

年が開けると体重は30kgと再び落ち始めていた。
節分には「恵方巻きを買ってビデオ通話で一緒に食べよう」と提案したり、自分が食べたお菓子の写真を送り付けて食欲を刺激出来ればと思った。

そしてある日の通話で、私はもう覚えていないのだが、母の心に刺さった言葉があるという。

「もし災害が起きたり事故にあったりしたら、美味しいものも食べられんままこのまま死んでいくんよ。最後の晩餐がクラッカー1枚とかでいいん?今日が食べ納めになるんかもしれんのよ。コンビニのお菓子でもいいやん、食べたいと思ったものを食べるんよ」

そうまくし立てられて、「確かに言う通りや。ちょっとコンビニのお菓子でも買ってみようかな」という気持ちになったという。

そこから回復の兆しが見られ、今年4月、胃の病気と適応障害になった私の様子を見るために再び東京へやってきた。
2年ぶりの東京である。

なにやら小さなノートを何回も見直している。
”東京パン屋リスト”らしい。
いつの間にか使い方を覚えたYouTubeなどで東京の美味しいパン屋さんをチェックし、行きたいお店をメモしているという。

そして彼女は行きたいリストから、無事に6件のパン屋さんを巡ることができた。

ぽっこりと出たお腹を見ると、拒食症の心配はもうなさそうだった。

胃の病気のせいで、私の方が少食になってしまった。
1日のごはんがゼリーだけだったりお粥だったり、段々と酷くなってきて、1日1個お豆腐を食べればお腹いっぱい。
栄養のために1日2個ゆでたまごをなんとか食べる。
そんな日々のなかで、あのころの母の気持ちを味わった。
ごはんの要らない世界は、虚無だった。

だからこそあのころ、無闇に好きなものを食べろ、病院へいけと言ったことが正しいのかまだ判らない。
どんなに言われても食べられないときは食べられないからだ。
ひとつ言えることがあるとすれば、健康がいちばんということだろう。
好きなものを食べ、適度に運動し、仕事をこなし、ささいなことで笑える。
健康というものは、いちど壊れると修復までに時間がかかるらしい。
どんなに急いでも焦っても治らないときは治らない。

母は5年かけて克服したのだ。
ほんとうに些細ないつもの会話がきっかけで、美味しいごはんを取り戻したのだった。

次回、いちど壊れたら二度と修復できないものもある。20年以上の友情を私は捨てた。

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